今回は、光る君へ「明子女王」と呼ばれる理由は?父・源高明とは?兼家を恨むのはなぜ?と題してお届けします。
毎週日曜日20:00〜放送されている吉高由里子さん主演の大河ドラマ『光る君へ』。
瀧内公美さん演じる、藤原道長(柄本佑)のもう1人の妻・源明子は美人なのに、兼家を恨むオーラがバンバンに出ていてちょっと怖いですよね(^_^;)
源明子は「明子女王」と呼ばれていますが、道長の妻であって天皇の妻なわけではないのに、なぜ「女王」と呼ばれているのでしょうか?
本記事では、光る君へ「明子女王」と呼ばれる理由は?父・源高明とは?兼家を恨むのはなぜ?と題して詳しくご紹介していきます。
- 「明子女王」と呼ばれている理由
- 明子の父・源高明について
- 明子の兄・源俊賢について
- 明子が兼家を恨む理由を分かりやすく簡単に
- 道長や正室・倫子、紫式部との関係
ぜひ、最後までお付き合いください(*^^*)
光る君へ「明子女王」と呼ばれる理由は?
こんだけ地雷を踏み抜かれても顔色ひとつ変えなかった源明子様。恨み骨髄にまで染みているからこその振る舞いであろうなぁ…#光る君へ pic.twitter.com/L3pntRtC3u
— なぞだしଲ (@Himadashiz) March 31, 2024
【「明子女王」と呼ばれる理由】
明子は醍醐天皇の第15王子・盛明親王の養女だから
他の「あきこ」と区別するため
『光る君へ』で瀧内公美さんが演じている源明子が「明子女王」と呼ばれる理由を予想しました!
以下で詳しく解説してきますね♪
「明子は醍醐天皇の孫だから女王と呼ばれている」という声もあります。
しかし明子の父・源高明は、明子が生まれるずっと前に臣籍降下(皇族じゃなくなること)してます。
そのため、明子は生まれた時点では「女王」の身分ではなかったはずです。
①盛明親王の養女だから
『光る君へ』で源明子が「明子女王」と呼ばれる理由1つ目は、「盛明親王の養女だから」です。
明子は安和の変(次章で解説)で父・源高明が失脚した後、叔父・盛明親王の養女になりました。
家系図にすると、こんな感じ↓
盛明親王は、源高明の弟です。
なお、源高明と盛明親王の母・源周子は更衣であるため、身分はそんなに高くありません。
前述の通り、明子は醍醐天皇の孫であるものの、父・源高明は既に臣籍降下(皇族じゃなくなること)していたため、明子は生まれた時点では「女王」の身分ではありませんでした。
しかし、盛明親王(皇族)の養女になったため「女王」と呼ばれるようになったのです!
盛明親王も1度、臣籍降下して源盛明と名乗っていた。
しかし、明子を養女にする前に皇籍復帰をして親王宣下(皇族の子どもに「親王」or「内親王」の地位を与えること)されている。
そのため、明子を養女に迎えた時点で、盛明親王は皇族だった。
②他の「あきこ」と区別するため
『光る君へ』で源明子が「明子女王」と呼ばれる理由2つ目は、「他の『あきこ』と区別するため」です。
明子が「女王」と呼ばれているのは、前述の通り「盛明親王(皇族)の養女になったから」ですが、Xなどでは「養女になっただけで皇族に戻るの?」という疑問の声もあります。
確かに、皇族に戻ったなら名字がないはずですが、明子は「源」という名字がまだあります。
『光る君へ』では登場人物に「あきこ」が多い都合上、区別するために「女王」をつけているという可能性もあります。
『光る君へ』には、
- 明子
- 詮子(道長の姉)
- 彰子(道長と倫子の長女)
と、道長の周りは「あきこ」ばっかり!
歴史の授業などでは「彰子→しょうし」「詮子→せんし」などと音読みで読むので区別できますが、『光る君へ』で女性の名前はみんな訓読みになっています。
ただでさえ「藤原」ばっかりで覚えにくいのに、そこに「あきこ」が3人も出てきたら、どの「あきこ」を指しているのか分からなくなりますよね(^_^;)
他の「あきこ」と区別するための便宜上、名字がある源明子を「明子女王」と呼んでいるというのもあるのかもしれませんね。
光る君へ「明子女王」の父・源高明とは?
【日本史】
「光る君へ」を見た源明子の藤原氏への怨念がすごい
「源氏物語」は失脚させた藤原氏への源氏の怨念を鎮めるために
道長が紫式部に源氏を讃える小説を創作するよう依頼したという説を聞いたことがあるこのドラマもその説を採用するということなのだろうか?#光る君へ#NHK pic.twitter.com/7kNcIo0MqY
— アンドレイチロー (@jima5158) March 31, 2024
『光る君へ』では明子女王の父・源高明の名前はよく登場しますが、実際には出てきていないので、どんな人物なのかイマイチピンときませんよね〜
そこで本章では、
- 明子の父・源高明
- 明子の兄・源俊賢
はどのような人物なのか、経歴や家系図と共にご紹介してきます!
父・源高明
明子の父は、60代・醍醐天皇の第10皇子・源高明。
高明の経歴について、その都度の家系図を入れながら解説してきます!
年 | 出来事 |
914 | 醍醐天皇の第10皇子として誕生(母は源周子) |
年 | 出来事 |
920 | 7歳で臣籍降下(皇族ではなくなる) |
学問に優れていたため、グングン昇進! | |
939 | 26歳で公卿(高官)になる |
? | 妻の姉の安子(=兼家の姉)は62代・村上天皇の妻であり、3人の皇子を産む =強い後ろ盾+皇太子候補との外戚関係で、権力を持つ! | 藤原師輔(兼家のパパ)の三女&五女(=兼家の妹)を妻にし、師輔が高明の後ろ盾に!
源高明と師輔一家(兼家パパ)の関係図はこんな感じ pic.twitter.com/BEXx5zpkUb
— いちご (@YTrmgNGV4Vo9lNW) April 5, 2024
- 高明は、師輔の娘たち(2人は異母姉妹)を妻に
- 兼家とは義兄弟になった
- 義父の師輔が後ろ盾になった
ということですね。
年 | 出来事 |
960 | 師輔(兼家のパパ)・死亡 |
964 | 安子(兼家の姉)・死亡 |
高明の後ろ盾がいなくなってしまう(><) | |
965 | 51歳の時に明子誕生 |
年 | 出来事 |
967 | 53歳で右大臣になる & 娘を天皇の息子に嫁がせる |
年 | 出来事 |
968 | 54歳で左大臣になる |
969 | 55歳の時に安和の変で失脚(次章で詳しく解説!) |
972 | 58歳の時に流罪を赦されて帰郷するが、政界には復帰せず |
982 | 享年69歳で死去 |
要は明子の父・高明は、
- 左大臣にまで上り詰めた
- 娘を皇子(天皇の息子)の妃にした
と、『光る君へ』時点の兼家くらい出世してたけれど、全盛期に失脚させられたということですね。
後ろ盾がいなくなってしまったというのが大きな原因かもしれませんね。
高明が失脚させられたことについては、次章で詳しく解説しています!
兄・源俊賢
源俊賢【960~1027】は源明子の兄、「一条朝の四納言」の一人。最終官位は正二位・権大納言。有能な実務官僚として道長を支える事になる人物。処世術の達人でもあり、権力闘争の狭間を巧みに生き抜いた。ちなみに『鳥獣戯画』の作者とされる鳥羽僧正覚猷は彼の孫である。#光る君へ pic.twitter.com/4Hga28PpOM
— आपणो राजस्थान (@Ramgopal029) March 24, 2024
明子の異母兄は、後に一条朝の四納言(一条天皇の時代に活躍した4人の高官)の1人となる源俊賢。
年 | 出来事 |
960 | 源高明の三男として誕生(母は藤原師輔の三女) |
969 | 11歳の時、父・高明が安和の変で失脚(次章で詳しく解説) |
高明が流罪になった際、俊賢も一緒に大宰府(九州)についていったとされる | |
高明に厳しく育てられ、大学寮(官僚育成機関)でも学んだ | |
984〜986 | 25歳くらいの時、兼家が俊賢の後ろ盾となり、順調に昇進 |
995 | 35歳で公卿(高官)になる |
1010 | 50歳で正二位(上から3番目に偉い)になる |
1027 | 享年69歳で死亡 |
道隆の子どもたち(伊周、定子、隆家)が没落していく中でも、好意的に接していた
道隆のおかげで異例の昇進ができたため、道隆の死後、
道長一家とも仲良くしていた
道隆の子どもたちと仲良くしながら、
藤原行成(渡辺大知)を推薦し、行成は出世できたため、2人は親友になった
自分の後任にF4の1人・
『光る君へ』で明子は兼家をガンガン憎んでいますが、兼家が後ろ盾になってくれたおかげで俊賢は昇進できていたんですね〜
父・高明は失脚してしまいましたが、源俊賢は大臣とまではいかなかったものの、結構出世できました。
俊賢が出世できたのは、学識があった上、常に最高権力者と親しくしていたからだと言われています。
光る君へ「明子女王」兼家を恨むのはなぜ?
明子が兼家を恨んでいるのは、明子の父・源高明が失脚した事件に兼家が関与したとされているからです。
明子の父は、60代・醍醐天皇の第10皇子・源高明。(=明子は醍醐天皇の孫)
源高明は学問に優れていたため出世
↓
63代・冷泉天皇(円融天皇の兄)が即位
↓
源高明は左大臣にまで上り詰める
↓
冷泉天皇は病気がちだっため、
父・村上天皇(62代)「体が弱く、すぐに退位することになるかもしれないから、皇太弟(次の天皇となる弟)を立てなさい」
と言われていた
↓
冷泉天皇には皇子がいなかったため、東宮(次の天皇)候補は村上天皇と、その正妻・安子(兼家の姉)の息子である以下の2人
村上天皇の第4皇子・為平親王(妻は源高明の娘)
村上天皇の第5皇子・守平親王、後の円融天皇(冷泉天皇即位時点で8歳で妻なし)
↓
もし年長者である為平親王が東宮となり将来天皇になれば・・・
- 源高明は「天皇の義父」になって権力増大!
- 兼家は「天皇の叔父」にはなれる
=権力は「源高明>兼家(藤原家)」
もし守平親王が東宮となり将来天皇になれば・・・
- 兼家は「天皇の叔父」になれる&現在守平親王には妻もいないため、娘を嫁がせて天皇の義父にもなれる!
- 源高明は外戚ではあるが、繋がりはそこまで濃くない
=権力は「兼家(藤原家)>源高明」
という状態になります。
当然、藤原家としては、守平親王に天皇になってもらうのが都合がいい
↓
当時、源高明は後ろ盾がいなかったため、藤原家の主張が通って守平親王が東宮に!
↓
2年後、源高明は「為平親王を擁立して冷泉天皇を退位させようとしている」という疑いで、九州に左遷されることに・・・(=安和の変)
謀反の罪を密告されたけど、源高明が謀反にどう関わっていたのかは不明なんだって
左遷される前に出家して許しを請うたけど、許されなくて左遷されたそう・・・
↓
3年後に罪を許されて帰京するが、政界には復帰せず、隠居生活を送ることに・・・
安和の変の首謀者は分かっていませんが、以下の人物が関わった可能性が高いとされています。
実頼(頼忠のパパ、公任のおじいちゃん)
藤原師尹(実頼の異母弟)
藤原伊尹(兼家の兄、行成のおじいちゃん)
藤原兼家(段田安則)
藤原
兼家は、
安和の変の前後でガンガン出世していた
↑
これは、兄・伊尹の政権の基盤を確立するため、兼家も宮中を掌握する一端を担ってたためとされている
=安和の変にも関与している
ということのようです。
『光る君へ』で明子が登場した12話・986年時点で、安和の変の首謀者とされる人物で生き残っているのは兼家だけ(><)
明子の父が失脚するきっかけになった安和の変の首謀者候補で生き残っているのは兼家だけであるため、明子は兼家を恨んでいるというわけですね〜
呪いは六条御息所がモデル?
『光る君へ』14話ではついに、明子女王は兼家(段田安則)を呪って殺害してしまっていました。。。
そんな呪いで殺害する女性・明子は、『源氏物語』の六条の御息所がモデルになっていると思われます!
【六条の御息所とは?】
紫式部が書いた『源氏物語』に登場する、メンヘラの年上女性。
亡くなった東宮(皇太子)の妃(=未亡人)であり、「当代一の貴婦人」と言われる才女。
光源氏は漢詩を教えてもらう体で会いに行き、そのまま恋に落ちて一夜を共にし、愛人になる。
光源氏の愛人である六条の御息所がなぜ「メンヘラ」と言われているかというと、光源氏の正妻や他の愛人を生霊で呪って殺害したからです!
①光源氏の愛人を生霊で殺害
光源氏が他の愛人のところに通い、六条の御息所の所に来ることが減る
↓
六条の御息所は嫉妬から生霊を飛ばし(無自覚)、他の愛人を呪って殺害
②光源氏の正妻を生霊で殺害
光源氏の正妻は、お祭りで六条の御息所と出くわす
↓
牛車の場所取り争いを起こし、正妻が勝利!(現代の駐車場所争い的な?)
↓
六条の御息所は屈辱感から生霊を飛ばし(無自覚)、正妻を呪って殺害
③光源氏の最愛の正妻格を呪う
六条の御息所が亡くなった後
↓
亡霊となって現れ、光源氏の正妻格は倒れた
↓
その後も体調は優れず、光源氏の正妻格は後に死亡
明子役の瀧内公美さんは出演が発表された際、以下のようなコメントを出しています!
制作者の皆さまからは、役柄のヒントは源氏物語でいう“六条御息所”と、現段階では言われております。
引用:https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=37940
制作陣からも「六条の御息所」と言われているということは、「明子のモデルは六条の御息所」として描かれているということですね!
明子のモデルが六条の御息所だとすると、今後、
- 道長の正妻・倫子を呪おうとする
- 道長の最愛の人・まひろを呪おうとする
という展開もあるかもしれませんね(^_^;)
光る君へ「明子女王」
3/28 三ツ矢の日!
というわけで、「三ツ矢」を放った源満仲さんの銅像です🥰
左はおなじみ川西市、右は福井県の和田八幡宮のものです。
「光る君へ」では、花山天皇の出家の際にいたはず…出ませんでしたけども!😅
明子のお父さんを陥れた1人でもあります😌#3月28日は三ツ矢の日 pic.twitter.com/vFysrBtPkn
— 丹後の歴史を愛でる会 (@Tango_mederukai) March 28, 2024
本章では、『光る君へ』の明子女王について、
- 道長との子供
- 道長の正室・源倫子との関係
- 紫式部との接点
もご紹介していきます!
道長との子供は?
道長と明子の子供は6人!
『光る君へ』の明子女王は、道長の「もう1人の妻」であり正妻ではありませんが、6人もの子供がいます!
生まれた年 | 名前 | どんな人物? |
993 (清少納言が定子に仕え始めた年) | 頼宗 | 右大臣になる |
994 | 顕信 | 18歳で出家し、道長と明子は悲しんだ |
995 (道長が右大臣になった年) | 能信 | 権大納言(3番目に偉い)になる |
999 (彰子を一条天皇に入内させた年) | 寛子 | 一条天皇の次の天皇・三条天皇(木村達成)の第一皇子に嫁ぐ |
1003 | 尊子 | 右大臣の正室になる |
1005 (紫式部が彰子に仕え始めた年) | 長家 | 権大納言(3番目に偉い)になる |
6人も子供ができた上、割とみんな出世&良い所に嫁いでいますね。
正妻・倫子との子供は関白や皇后になっているため、正妻の子ほど出世はしていませんが、道長は明子との子供もちゃんと大事にしていたようです。
なお、道長の正妻・倫子と、妾・明子の出産歴を見てみると、道長がどれだけ2人のもとに通い詰めてポンポン子供を作っていたのかが分かります(^_^;)
年 | 正妻・倫子の出産歴 | 妾・明子の出産歴 |
988 | 長女・彰子を出産 | |
992 | 長男・頼通を出産 | |
993 | 次男・頼宗を出産 | |
994 | 次女・妍子を出産 | 三男・顕信を出産 |
995 | 四男・能信を出産 | |
996 | 五男・教通を出産 | |
999 | 三女・寛子を出産 | |
1000 | 四女・威子を出産 | |
1003 | 五女・尊子を出産 | |
1005 | 六男・長家を出産 | |
1007 | 六女・嬉子を出産 |
長女・彰子が生まれてから数年空きましたが、その後はほぼ毎年のようにどちらかの妻が出産しています(^_^;)
実際の道長は「倫子は今妊娠中だから、明子のとこ行こ」「明子も妊娠したけど、倫子は出産終わったから倫子のとこ」と、あっちこっち行っていたのかもしれませんね(^_^;)
平安当時に6人ずつ産んだ上、倫子は89歳まで、明子は84歳まで長生きしたなんてヤバすぎます(笑)
道長の正室・源倫子との関係
結論→ライバル視していた可能性はあるが、会ったことはないのでは?
道長の正室は源倫子であり、明子女王は「もう1人の妻」という立ち場でありつつ、道長が公的な場所に伴うのは倫子だけであり、実質明子は「妾」のような立ち位置でした。
ちなみに『光る君へ』で倫子が「明子さまは、まだお若い」と言っていましたが、
- 倫子→964年生まれ
- 明子→965年生まれ
で1歳しか違いません。
「お前も年は変わらないだろう?」って言われたくて、「明子さまは、まだお若い」って言ったのかな?
こわー(><)
平安時代、夫に妾がいるのは当たり前のようなものだったとは思いますが、お互いに嫉妬・ライバル視していた可能性は考えられます!
正妻・倫子が妊娠中に明子と結婚
道長は、明子の子供は右大臣止まりで、誰も天皇に嫁いでいない
倫子の子供は関白になったり、天皇に嫁いだりしているが、明子の子供たちは、出世を図ろうとしていた
明子とは時々しか会っていなかった
倫子とほとんど毎日行動を共にしていたが、
明子も倫子もそれぞれ6人ずつ子供を授かっていますので、「道長さま、私のところには全然来てくれない(><)」状態というわけではないと思います。
しかし会う頻度や子供の出世には差があるため、嫉妬していてもおかしくありません。
ライバル視していたものの、
道長&倫子が住んでいた土御門殿と、明子が住んでいた高松殿は徒歩30分ほどの距離がある
平安時代、女性は基本的に引きこもり
であるため、倫子と明子は会ったことはなかったと考えられます。
しかし全く交流がなかったわけではなく、
- 偶然会った可能性
- 文通をしていた可能性
はあるのではないでしょうか?
『源氏物語』でも、お祭りに行った際、光源氏の正妻と愛人の1人が偶然出くわし、トラブルになったことが描かれています。
そのため、倫子&明子もどっかで偶然1回くらいは会っていたかもしれませんよね(><)
平安時代、同じ夫を持つ妻同士が連絡を取り合うことは珍しくなかったそうなので、倫子&明子も文通くらいはしていた可能性も考えられます。
実際、兼家の妾・道綱母は、兼家が別の愛人のもとに通っていた際、正妻である時姫に、
「兼家さまは、正妻の奥さま(時姫)のもとにも行っていないと聞いています。一体どんな女性のところに通っているのかしら?」
という手紙を送り、時姫から「夫が通っているのは、道綱母さまの所だと聞いてますけど?」と返されています(^_^;)
「あら〜あんたのとこにも行ってないのね(笑)」みたいな感じかな?
こわ(笑)
別に仲良く文通するわけではなくバチバチなようですが、相手を煽る手紙みたいなものは送り合っていたかもしれませんね(^_^;)
紫式部との接点は?
結論→接点があるという情報はない
明子女王と紫式部(まひろ)に接点があるという情報はありませんでしたが、
- 明子の父・源高明が『源氏物語』の光源氏のモデルという説
- 紫式部ではなく、高明自身が『源氏物語』を書いたという説
もあるようです。
高明自身が『源氏物語』を書いたという説はともかく、光源氏のモデルにしたという説があるということは、紫式部は一方的に高明のことを知っていたのでしょう。
高明のことを知っていたということは、紫式部は明子女王のことも認知していた可能性が高いです。
また、
- 『源氏物語』は貴族たちの間で読まれていた
- 紫式部は、道長と正妻・倫子の娘・彰子の女房(お世話係&家庭教師)として仕えていた
といったことから、明子も紫式部のことは認知していたのではないでしょうか?
このように、紫式部と明子女王はお互いに認知していた可能性が高いですが、面識自体はなかったのではないかと考えられます。
しかし『光る君へ』の明子の役柄説明には、「まひろの存在に鬱屈がたまっていく」と書かれています。
そのため、『光る君へ』では道長とまひろの関係に気づき、嫉妬するという展開もあるかもしれませんね。
まとめ
光る君へ 13話のやつ
貴子さま、相変わらずギャンギャンの道隆しか勝たんだし
明子さまは奥様は魔女(呪)…😌🫶#光る君へ #光る君絵 pic.twitter.com/M075dg7Mcx— 🍖肉子✈️2024旅立ち🍖 (@mimpi_cahaya) March 31, 2024
本記事では、光る君へ「明子女王」と呼ばれる理由は?父・源高明とは?兼家を恨むのはなぜ?と題して詳しくご紹介していきましたが、いかがでしたでしょうか?
『光る君へ』の道長の妻の1人・明子は、盛明親王の養女であるため「明子女王」と呼ばれています。
兼家を恨む理由についても画像付きで解説しましたので、参考にしていただければ幸いです(*^^*)
それでは、光る君へ「明子女王」と呼ばれる理由は?父・源高明とは?兼家を恨むのはなぜ?を最後までお読みいただき、ありがとうございました。