今回は、光る君へ年表!紫式部の死因や生い立ち・時代背景を簡単にわかりやすく解説!と題してお届けします。
毎週日曜日20:00〜放送されている吉高由里子さん主演の大河ドラマ『光る君へ』。
『源氏物語』の作者として知られる紫式部が主人公です。
歴史の授業でやったので名前だけは覚えていますが、ぶっちゃけどんな人か、その時代に何があったのかは、私のように忘れてしまっていた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
私は高畑充希さんが大好きなので理解した上で楽しみたいと思い、本を買い漁って調べてみました!
日本史が苦手だった私が、自分でも分かるように簡単にわかりやすく解説していきます♪
本記事では、光る君へ年表!紫式部の死因や生い立ち・時代背景を簡単にわかりやすく解説!と題して詳しくご紹介していきます。
- 「『源氏物語』は聞いたことあるけど、ぶっちゃけ紫式部自身がどんな人でどんな人生だったか知らない」という方
- 「歴史とか苦手だから、簡単にわかりやすく知りたい!」という方
- 「あの時代の用語とかマジ分からん」という方
- 紫式部の一生だけでなく、時代背景も併せて理解したい方
ぜひ、最後までお付き合いください(*^^*)
- 光る君へ年表!
- 光る君へ年表!紫式部の死因や生い立ち・時代背景を簡単にわかりやすく解説!
- 光る君へ解説!
- 用語解説
- 出来事解説
- 安倍晴明の屋敷に落雷(1話)
- 散楽が盗賊で、倫子の家を荒らしたのは本当?(4話)
- 一条天皇即位時、高御座に生首事件(11話)
- 兼家が左大臣に送った文(12話)
- 道長がまひろに送った恋文の意味(12話)
- 尾張の国司変更(13話)
- 詮子が内裏から追い出される(15話)
- 道隆が66人の位を上げたのは本当?(15話)
- 後涼殿・弘徽殿の火事(16話)
- 何の疫病?(16話)
- 内覧について、20年前の先例(17話)
- 租税の免除(19話)
- 行成が道長にチクった内容(19話)
- 倫子が読んでいた道長の日記(19話)
- 宋の商人の目的とその後
- 宋の楽器(22話)
- 朱仁聡の殺人事件の容疑者疑惑(22話)
- 998年の災害(25話)
- 道長が辞表提出(25話)
- 道長の危篤(28話)
- 干ばつ(30話)
- カササギ語りは実在?(30話)
- 1005年の火事(32話)
- 平維衡の武力争い(33話)
- 興福寺の僧と道長の事件(33・34話)
- 敦康親王の病気(34話)
- 御嶽詣と伊周の道長暗殺計画(35話)
- 彰子の出産(36話)
- 宮の宣旨がまひろに送った文(37話)
- 盗人騒動(37話)
- 伊周の親戚の呪詛事件(38話)
- 人物解説
- 和歌・漢詩解説
- まひろが写本(2話・30話)
- まひろが代筆した和歌(2話)
- 倫子サロンで議論(6話)
- 漢詩の会(6話)
- 道長がまひろに送った歌(6話)
- まひろと道長の和歌・漢詩のやり取り(10話)
- 為時から惟規への言葉(9話)
- 為時が花山天皇に言った中国語(9話)
- 倫子サロン(11話)
- 伊周の妻選びの和歌の会(14話)
- 道兼が踊りながら歌っていた(14話)
- まひろが詠んだ漢詩(15話)
- 道隆が死の直前に詠んだ和歌(17話)
- まひろの申文(20話)
- 越前に着いたまひろが詠んだ和歌(22話)
- 為時が中国語で詠んだ漢詩(22話)
- 雪が降った日に、まひろが詠んだ歌(23話)
- 『古今和歌集』で定子が好きな歌(23話)
- 亡くなる前のさわが、まひろに詠んだ和歌(24話)
- 宣孝がまひろに送った文(24話)
- まひろが読んでいた漢文(25話)
- 公任と清少納言の和歌(25話)
- 道長からの結婚祝いの漢文(25話)
- まひろと宣孝の和歌(26話)
- 屏風歌の意味(27話)
- 賢子の子守唄(28話)
- 赤染衛門が彰子に教えた歌(28話)
- 四条宮の学びの会の題材(30話)
- 和泉式部が詠んだ和歌(30話)
- 為時が頼通に教えた漢詩(30話)
- 和泉式部が詠んだ和歌(31話)
- 漢詩の会で伊周が詠んだもの(32話)
- 曲水の宴で詠まれた漢詩(34話)
- 恋人を亡くした和泉式部が詠んだ和歌(35話)
- 捕まった惟規が詠んだ和歌(35話)
- まひろが彰子に教えた漢籍(36話)
- 彰子出産後にまひろが詠った和歌(36話)
- 五十日の儀でまひろ&道長が詠った和歌(36話)
- まとめ
光る君へ年表!
年 | 紫式部 | 時代背景 |
970 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
973 | 母・死亡(4歳) | |
984 | 父・式部省の役人になる(15歳) | 円融天皇退位&花山天皇即位 |
986 | 父・職を失う(17歳) | 花山天皇退位&一条天皇即位 |
990 | 藤原定子が一条天皇に入内(結婚) 藤原兼家が死亡し、息子の道隆が関白となる | |
993 | 清少納言が定子に仕える | |
994 | 姉・死亡(25歳) | |
995 | 道隆が死亡し、弟・藤原道長が右大臣となる | |
996 | 父・越前守に任命され、越前(今の福井県)へ 紫式部も同行(27歳) | 藤原道長が左大臣となる |
998 | 越前から戻り、藤原宣孝と結婚(29歳) | |
999 | 娘が誕生(30歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚)する 一条天皇と定子の間に、敦康親王誕生 |
1000 | 定子が皇后、彰子が中宮となる 年末に定子・死亡 | |
1001 | 夫・宣孝死亡 秋ごろから『源氏物語』を書き始める(32歳) | |
1005 | 中宮・彰子に仕え始める(36歳) | |
1008 | 『源氏物語』ほぼ完成(39歳) | 一条天皇と彰子の間に、敦成親王(後の後一条天皇)誕生 |
1009 | 一条天皇と彰子の間に、敦良親王誕生 | |
1011 | 弟・死亡(42歳) | 一条天皇が退位し、三条天皇が即位 一条天皇・死亡 |
1012 | 彰子が皇太后となる | |
1013 | 宮中を出る | |
1014 | 紫式部・死亡(45歳) |
紫式部の生没年には諸説ありますので、本記事では生まれ年はドラマの設定と同じ970年で統一させていただきました。
年齢は平安時代の数え方に合わせ、数え年(生まれた時が1歳)で表記しています。
現代的に直すには−1をしてください。
大河ドラマ『光る君へ』の年表について、紫式部の生涯と時代背景を史実通りに簡単にまとめました!
史実通りの年表は上記の通りですが、『光る君へ』ドラマ内で起きた出来事の年表もご紹介していきます。
年 | まひろ | 道長 | 時代背景 |
966 | 誕生 | この時の天皇は村上天皇 | |
967 | 村上天皇退位&冷泉天皇即位 | ||
969 | 冷泉天皇退位&円融天皇即位 | ||
970 | 誕生 | ||
978 | まひろ(9歳)と道長(13歳)が出会う & 母が道兼に殺害される(史実では973年) | 為時が花山天皇の教育係に | |
983 | 倫子と出会う(14歳) | ||
984 | 父・式部省の役人になる(15歳) & 清少納言と出会う (史実では面識なし) | 円融天皇退位&花山天皇即位 | |
985 | 忯子・死亡 | ||
986 | 直秀・死亡 & 一夜を共にする(まひろ17歳、道長21歳) | 花山天皇退位&一条天皇即位 | |
父・職を失う | |||
987 | 倫子と結婚(22歳) | ||
988 | 長女・彰子誕生 & 源明子を妻にする(23歳) | ||
990 | 東三条殿で再会(まひろ21歳、道長25歳) | 藤原定子が一条天皇に入内(結婚) 藤原兼家が死亡し、息子の道隆が関白となる | |
明子妊娠&流産 | |||
991 | 円融天皇・死亡 | ||
992 | 長男・頼通誕生(27歳) | ||
993 | 道綱母(寧子)と出会う(24歳) | 明子との第一子出産(28歳) | 清少納言が定子に仕える & 左大臣・源雅信死亡 |
994 | たね・死亡(史実では姉・死亡) | ||
まひろ疫病&道長看病(まひろ25歳、道長29歳) | |||
995 | さわとの別れ(26歳) | 右大臣&内覧となる(30歳) | 道隆&道兼が死亡 |
996 | 父・越前守に任命され、越前へ 紫式部も同行 & 周明(松下洸平)と出会う(27歳) | 左大臣となる(31歳) | 長徳の変で定子出家&伊周・隆家流罪 & 定子妊娠 & 清少納言『枕草子』を書き始める & 高階貴子(板谷由夏)・死亡 |
997 | さわ・死亡(28歳) | 一条天皇と定子の間に、第一皇女誕生 & 定子・職御曹司に戻る & 伊周&隆家・帰京 | |
998 | 越前から戻り、藤原宣孝と結婚(29歳) | 辞表を提出するも却下される(33歳) | |
999 | まひろが道長との子を出産(史実では宣孝との子)(まひろ30歳、道長34歳) | 一条天皇と定子の間に、敦康親王誕生 | |
娘・彰子が一条天皇に入内する | |||
1000 | 道長危篤&まひろの声で復活)(まひろ31歳、道長35歳) | 定子が皇后、彰子が中宮となる 年末に定子・死亡 | |
1001 | 夫・宣孝死亡(32歳) | ||
1002 | 詮子・死亡 | ||
1004 | あかね(和泉式部)と出会う & 『カササギ語り』が評判に & 『源氏物語』を書き始める※史実では1001年〜(35歳) | ||
1005 | 中宮・彰子に仕え始める(36歳) | 安倍晴明・死亡 | |
1006 | 興福寺の僧が攻めてくる(41歳) | ||
1007 | 御嶽詣(42歳) | ||
1008 | 一条天皇と彰子の間に、敦成親王(後の後一条天皇)誕生 & 花山天皇・死亡 | ||
1009 | 伊周の親戚の呪詛事件 & 和泉式部が彰子の女房に | ||
以下は史実通り(ドラマ後に随時更新) | |||
1009 | 一条天皇と彰子の間に、敦良親王誕生 | ||
1010 | 伊周・死亡 | ||
1011 | 弟・死亡(42歳) | 一条天皇が退位し、三条天皇が即位 一条天皇・死亡 | |
1012 | 彰子が皇太后となる | ||
1013 | 宮中を出る | ||
1014 | 紫式部・死亡(45歳) | ||
1028 | 死亡(享年62歳) |
ドラマでは割とW主演っぽく道長のことも描かれているため、道長の年表も入れてみました!
史実と合わせ、参考にしてみてください♪
詳しい生涯や時代背景については、次章でご紹介していきます(*^^*)
光る君へ年表!紫式部の死因や生い立ち・時代背景を簡単にわかりやすく解説!
『女君で紐解く源氏物語』今回は「夕顔」が主人公です‼️
7月1日土曜日・日比谷図書館B1
13時30分開演です!三田村雅子先生の解説。
私は原文朗読をさせていただきます✨寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔#源氏物語 #夕顔 #光る君へ #紫式部 pic.twitter.com/zlS92kS9gY
— 朗読家 中里貴子 (@shiawasegatari) May 25, 2023
『光る君へ』の主人公・紫式部の生涯について、
- 生い立ち
- 結婚〜死別
- 宮中へ
- 死因
に分け、それぞれ時代背景と共に簡単にわかりやすく解説していきます!
意味が分からない単語については説明に加え、「現代ではこんな感じ」という比喩も入れますので、歴史が苦手な方でも安心ですよ♪
生い立ち
『光る君へ』の主人公・紫式部の生い立ちの年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
970 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
973 | 母・死亡(4歳) | |
984 | 父・式部省の役人になる(15歳) | 円融天皇退位&花山天皇即位 |
986 | 父・職を失う(17歳) | 花山天皇退位&一条天皇即位 |
990 | 藤原定子が一条天皇に入内(結婚) 藤原兼家が死亡し、息子の道隆が関白となる | |
993 | 清少納言が定子に仕える | |
994 | 姉・死亡(25歳) | |
995 | 道隆が死亡し、弟・藤原道長が右大臣となる | |
996 | 父・越前守に任命され、越前(今の福井県)へ 紫式部も同行(27歳) | 藤原道長が左大臣となる |
詳しく解説していきます♪
紫式部は下級貴族の家に誕生します。
そして、4歳の時に母・ちやは(国仲涼子)が亡くなります。
ちやはは紫式部の弟・惟規(高杉真宙)を出産してすぐに亡くなったと言われているそうです。
父・藤原為時(岸谷五朗)は漢文や漢詩を得意とする学者であり、紫式部がそばで聞いているだけで覚えてしまったため、
「紫式部が男の子として産まれていたら良かったのに」
と考えていたそうです。
父・藤原為時は、紫式部が15歳の時に式部省に勤めはじめ、六位蔵人でした。
【式部省とは?】
人事や礼式、役人養成機関である大学寮を統括する省のこと。
現代で言うと、文部科学省のような仕事や、役人の人事に関する仕事をする省のこと。
【六位蔵人とは?】
天皇の膳の給仕や、秘書的な役割をする仕事のこと。
6番目の地位(1番下)であったが、帝がいる殿上の間に入ることは許されていた。
17歳の時、父・藤原為時(岸谷五朗)が職を失います。
これは、花山天皇(本郷奏多)が僧になるため出家して退位し、一条天皇が即位したためです。
ある時、10年間無職だった父・為時に転機がやってきます!
為時は淡路守に任命されたのです!
【淡路とは?】
今の兵庫県淡路島。
【守とは?】
国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。
5番目の地位(下から2番目)だったが、帝がいる殿上の間に入ることは許されていなかった。
995年に関白・藤原道隆(井浦新)が亡くなり、一条天皇は誰も関白には任命しませんでしたが、藤原道長(柄本佑)を「内覧」にし、右大臣に昇格させました。
【内覧とは?】
天皇が見たり許可を与えたりする必要がある文書を、天皇より先に見る役職のこと。
謂わば「政治を取り仕切る役目」。
【右大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
2番目に偉い地位。
前述の通りトップが代わると役職の入れ替えが起こるため、紫式部の父・為時にも仕事が回ってきたのです!
しかし淡路は「下国」だったため、為時は一条天皇に申文を出します。
【下国とは?】
地方は土地の広さや農産物の撮れ高により、
- 大国
- 上国
- 中国
- 下国
と格付けされていた。
【申文とは?】
下位の者が朝廷に希望を書いて差し出す手紙のこと。
為時の申文の出来が良かったため、大国・越前守に任命されたのです!
【越前とは?】
今の福井県北部。
この頃、紫式部は藤原宣孝(佐々木蔵之介)から求婚されていました。
しかし、
- 宣孝は17歳も年上
- 宣孝には正室も側室も愛人もいた
- 他の女性との子どもが紫式部と同い年くらいだった
ため、ためらっていたのです。。。
父親を1人で越前に行かせるのも心配だったため、紫式部も一緒に越前へ向かったのでした。
時代背景
紫式部が誕生してから越前へ行くまでの時代背景についても解説します。
世は藤原家全盛期時代であり、ほぼすべての天皇に摂政・関白が置かれていました!
【摂政とは?】
天皇が幼い時に代わりに最終判断を下す役割。
【関白とは?】
成人した天皇を補佐する役割。
天皇が物事を決める前に、内容を吟味する権利があった。
身内同士の戦いとなり、藤原家は
- 北家
- 南家
- 式家
- 京家
に分かれて勢力争いをしていましたが、道長の父・藤原兼家(段田安則)は、
娘・詮子(吉田羊)を円融天皇(坂東巳之助)に入内(結婚)させる
↓
詮子が男の子・懐仁(後の一条天皇)を産む
↓
円融天皇は兼家が嫌いだったため、皇子を産んでいない藤原頼忠(橋爪淳)の娘・遵子を中宮(正室みたいなもの)にした
↓
怒った兼家は出社拒否&詮子と懐仁を円融天皇に会わせなかった
↓
円融天皇は譲歩して退位
「懐仁を皇太子にしてあげるよ。その代わりに僕の甥の花山天皇(本郷奏多)を次の天皇にするから」
↓
花山天皇(本郷奏多)が即位
↓
懐仁は東宮(皇太子)となる
↓
兼家は自分の孫(懐仁)を即位させるべく、策略する
↓
花山天皇の妻・忯子(井上咲楽)が急死
忯子は妊娠中だったけど、17歳で急死しちゃうよ
死因は、花山天皇の寵愛が過ぎて無理がたたり、病死したって言われてる(><)
↓
絶望している花山天皇に出家するようそそのかす
↓
兼家の三男・道兼「一緒に出家しましょう!」
↓
花山天皇が出家後、土壇場で道兼「出家前に親に会ってきます!」と言って立ち去る
↓
花山天皇が僧になるため出家して退位
↓
一条天皇即位
↓
兼家は祖父として摂政となる(のちに関白)
という流れで、藤原北家が権力を手にしたのです!
貴族社会では妻の実家の援助を受け、母方の祖父や伯父が子どもを養育したり後見したりする習慣があった。
そのため、娘を天皇に嫁がせることで天皇の外戚となり、皇子を産ませることで力を持つことができた。
兼家の長男・藤原道隆(井浦新)は、長女・定子(高畑充希)を一条天皇に入内(結婚)させます。
一条天皇の母・詮子(吉田羊)も兼家の娘のため、道隆(井浦新)にとって一条天皇は甥っ子。
一条天皇と定子はいとこ同士で結婚したのです。
990年に兼家が倒れると、藤原道隆(井浦新)が父の後を継いで関白となります。
993年、清少納言(ファーストサマーウイカ)は28歳頃から女房として定子に仕え始めます。
【女房とは?】
宮中や貴族に仕えた女性のことで、主人の身の回りのお世話や教育をした。
お世話係&家庭教師みたいなかんじかな?
現代の意味だと「奥さん」だからややこしいね(^_^;)
995年に藤原道隆(井浦新)が倒れると、色々とゴタゴタが・・・
道隆は息子・藤原伊周(三浦翔平)に内覧を任せようとプッシュ
↓
伊周「話が違う!俺は関白になれるって聞いたんだ!!もう一度一条天皇に確認しろ!」
↓
一条天皇「何だあいつ」
↓
道隆(井浦新)の死後、伊周ではなく、道隆の弟・道兼(玉置玲央)が関白に就任
↓
しかし道兼は関白に就任して数日で、疫病で急死
↓
一条天皇は次の関白を伊周(三浦翔平)or道長(柄本佑)で迷う
「伊周は妻・定子の兄だし、官職も上。でも、道長は年齢が上で人柄も良く、素質もあるんだよな〜」
↓
一条天皇の母・詮子(吉田羊)が自分の弟・道長をプッシュ!
↓
道長が内覧&右大臣になる
こうして、道隆(井浦新)の死後は道長(柄本佑)が権力を得たのです!
翌年、道長は左大臣に任命されます。
【左大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
2番目に偉い地位だが、1番偉い太政大臣は名誉職みたいなものであるため、左大臣が事実上の最高位。
左大臣は年配者、右大臣は若者が就任する。
大きく分けると右大臣と同じ地位だが、細かく分けると左大臣の方が上。
結婚〜死別
『光る君へ』の主人公・紫式部の結婚〜死別の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
998 | 越前から戻り、藤原宣孝と結婚(29歳) | |
999 | 娘が誕生(30歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚)する 一条天皇と定子の間に、敦康親王誕生 |
1000 | 定子が皇后、彰子が中宮となる 年末に定子・死亡 | |
1001 | 夫・宣孝死亡 秋ごろから『源氏物語』を書き始める(32歳) |
詳しく解説していきます♪
越前にいる間も、紫式部は藤原宣孝(佐々木蔵之介)と手紙(和歌)のやり取りをしていました。
- 宣孝のこと
- 紫式部が都に帰りたがっていたこと
があったため、紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)は越前に1人残り、紫式部を都に帰らせます。
そして、紫式部が29歳の時に藤原宣孝と結婚します。
現代でいうと平均くらいですが、平安時代当時はだいぶ遅い結婚だったようです。
平安時代は、
- 男子→15歳〜結婚可能(平均初婚年齢は20歳くらい)
- 女子→13歳〜結婚可能(平均初婚年齢は14〜15歳くらい)
だった。
宣孝とはケンカもしたそうですが、遠慮せずに本音でぶつかれる関係だったそうです(*^^*)
翌年、女の子が誕生し、賢い娘になるように「賢子」と名付けました(*^^*)
賢子は後に大弐三位と呼ばれる歌人になり、紫式部の後を継いで彰子の女房となる。
しかし、賢子が生まれた後、宣孝は紫式部のもとへ来ることが減り、夫婦仲が冷めていってしまったのです。。。
当時の結婚は、妻のところに夫が通う「妻問い婚(通い婚)」だった。
1001年、父・藤原為時(岸谷五朗)が越前守の任期(4年)を終え、都に帰ってきました。
同年、藤原宣孝(佐々木蔵之介)は都で流行していた疫病にかかり、亡くなってしまいます。。。
当時、宣孝の心は紫式部から離れてしまっていましたが、それでも紫式部は深い悲しみを味わいました。
同年、秋ごろから宣孝を失った悲しみを紛らわすかのように『源氏物語』を書き始めたのです!
時代背景
紫式部が結婚してから死別するまでの時代背景についても解説します。
999年、藤原道長(柄本佑)は当時12歳だった長女・彰子(見上愛)を一条天皇のもとに入内(結婚)させ、2番目の妃・女御とします。
【天皇の妃の位は?】
皇后=中宮>女御>更衣
「中宮」は本来「皇后」の別名だった
【ちょっと人物関係を整理】
一条天皇は道長の姉・詮子(吉田羊)の息子のため、
- 道長、道隆(死亡)にとっては甥っ子
- 定子、彰子にとってはいとこ
定子と彰子は同じ夫を持つ同士で、
- 定子→中宮
- 彰子→女御
で定子の方が位が上。
その年の年末、定子(高畑充希)は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産します。
第一皇子を出産したものの、定子の父・道隆(井浦新)は既に亡くなっているため、敦康親王には祖父という後ろ盾がいません。
もし道長の娘・彰子が皇子を産めば、道長は皇子(未来の天皇)の祖父となれるのです。
翌年、藤原道長(柄本佑)は、
- 中宮・定子(高畑充希)→皇后
- 女御・彰子(見上愛)→中宮
にしたため、一条天皇は2人の正妻を持つこととなります。(史上初)
定子の位はそのままでスライドされ、彰子の位だけ上がっていますね。
これは彰子の位を上げ、さらに自分の地位を盤石にするための道長の計画だったのでしょう。
同年年末、定子は第二皇女(第一皇女は997年に出産)となる媄子内親王を出産した直後、産後の経過が悪く、24歳という若さで亡くなったのです。。。
これで一条天皇の正妻は道長の娘・彰子だけとなりました。
宮中へ(←光る君へは今ココ)
『光る君へ』の主人公・紫式部の宮中にいた部分の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
1005 | 中宮・彰子に仕え始める(36歳) | |
1008 | 『源氏物語』ほぼ完成(39歳) | 一条天皇と彰子の間に、敦成親王(後の後一条天皇)誕生 |
1009 | 一条天皇と彰子の間に、敦良親王誕生 | |
1011 | 弟・死亡(42歳) | 一条天皇が退位し、三条天皇が即位 一条天皇・死亡 |
1012 | 彰子が皇太后となる | |
1013 | 宮中を出る |
詳しく解説していきます♪
宣孝を失った悲しみを紛らわすために『源氏物語』を書き始めた紫式部(吉高由里子)。
最初は『源氏物語』を友人たちに読ませていましたが、次第に貴族の間でも評判になります!
そんな時、
- 彰子が『源氏物語』を気に入っていた
- 彰子に高い教養を身に着けさせ、一条天皇が気にいる妃になり、皇子を産ませる
ために、藤原道長の正室・源倫子(黒木華)に呼ばれ、「彰子の女房になってほしい」と言われます。
『薬屋のひとりごと』で玉葉妃に仕えてる猫猫の立ち位置にちょっと似てる
最初は戸惑っていた紫式部ですが、父・藤原為時(岸谷五朗)にも説得されます。
道長は、為時が大国・越前守に任命された際、力添えをしたため、為時は道長に恩があったのです。
父親にも説得された紫式部は、女房として彰子(見上愛)に仕え始めます。
しかし宮中でイジメを受けたため、初出仕後に約5ヶ月も引きこもったとか(笑)
何やかんやありましたが、紫式部は「バカなふりをして目立たず出しゃばらない」という処世術?を覚え、無事、宮中での日々が始まったのです(^_^;)
当時、漢字は男性、女性はひらがなを使うのが一般的だった。
女性は、
- 漢詩(中国の伝統的な詩)
- 漢文(漢字のみでつづった古代中国の文章)
の知識があっても、知らないふりをするのが奥ゆかしいとされた時代。
紫式部は漢字の「一」も読めないふりをしていた。
そして、この頃から「藤式部」と呼ばれるようになります。
紫式部の本名は不明だが、『光る君へ』では「まひろ」となっている。
- 「藤」→藤原氏の一族だから
- 「式部」→昔、父親・為時(岸谷五朗)が式部省に勤めていたから
「藤式部」と呼ばれた。
今でいう「〇〇部長の娘さん」みたいな感じかな?
当時、紙は貴重だったため、紙の提供者がいればその都度書いてた『源氏物語』ですが、藤原道長(柄本佑)の支援があり、彰子に仕えながら『源氏物語』を書き進めていました。
紫式部の他にも、道長が呼び寄せた才能ある女房、
赤染衛門(紫式部曰く「家柄は良くないが、歌は素晴らしい」)
伊勢大輔(紫式部は、奈良の興福寺で咲いた桜を彰子に渡す役目を伊勢大輔に譲った)
和泉式部(紫式部曰く「素行は良くないが、歌は素晴らしい」)
など共に、彰子のサロンは優れた女性文化人が集う場になっていったのです。
【サロンとは?】
宮中の特定の集団のこと。
この場合、彰子を中心として仕える女性が集まって知的な会話を楽しみ、それが「サロン」と呼ばれた。
1008年から、宮中の様子を書いた日記『紫式部日記』を書き始めます。
『紫式部日記』には、同年に『源氏物語』と思われる物語の冊子作りが行われたと書かれているため、この頃には完成に近かったと考えられています。
当時、紫式部が仕えていた彰子が一条天皇の子・敦成親王を出産しました。
敦成親王誕生のお祝いの宴で、和歌や音楽の才人・藤原公任(町田啓太)が酔って「若紫はいませんか?」と探しました。
【若紫とは?】
『源氏物語』に登場する女性で、「紫の上」という名前でも知られる。
『源氏物語』の主人公・光源氏は、若紫が初恋の人に似ていたため気に入り、引き取って育てて、後に妻とする。
この話が評判になって「紫式部」と呼ばれるようになります。
1009年、40歳ごろには藤原道長(柄本佑)と和歌のやり取りをしていて、紫式部は道長の愛人(妾)説もあるようですが、定かではありません。
1010年には『紫式部日記』を完成させます。
翌年、紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)は、越後守に任命され、越後(今の新潟県)に向かいます。
父を心配してついていった紫式部の弟・惟規(高杉真宙)は、越後の地で病気で亡くなりました。。。
紫式部は深い悲しみを味わい、弟を亡くした後に出家したいと思ったそうですが、彰子を支えるべく、宮中に残ったのです。
しかし、そんな紫式部に宮中を去る事態が訪れます。
1012年、中宮・彰子(見上愛)が皇太后となります。
【皇太后とは?】
前の天皇の妃であり、今の天皇の母という立ち場。
彰子は前の天皇・一条天皇の妃ではあるが、今の天皇・三条天皇の母ではない。
三条天皇の両親は、
- 父→冷泉天皇(63代天皇。円融天皇の1代前)
- 母→藤原兼家の長女・超子(道長の姉)
である。
三条天皇は、
- 先代・一条天皇、彰子のいとこ
- 道長にとっては甥っ子
彰子を皇太后にした=道長は自分の孫・敦成親王(彰子の子)を帝にするつもりと考えられます。
彰子はこれまで父・道長の言うことを聞き続けてきましたが、
一条天皇の第一皇子・敦康親王(定子との子)を差し置いて、第二皇子である敦成親王(彰子の子)が皇太子となること
自分が皇太后となること
も喜んでおらず、父・道長の強引さに憤りを感じていました。
紫式部はそんな彰子に、道長のやり方に批判的な立場だった藤原実資(ロバート・秋山)に相談してはどうかと勧め、紫式部は彰子と実資の相談の取り次ぎをしていました。
その噂を耳にした道長は「彰子が最近反抗的になったのは紫式部が原因かヽ(`Д´)ノ」と怒り、紫式部を彰子から遠ざけるため、宮中を追い出したのです。。。
紫式部が宮中を去った理由は、道長に遠ざけられたため以外に、体調が悪い日が続いていたためという説もある。
時代背景
紫式部が宮中にいる間の時代背景についても解説します。
一条天皇は定子(高畑充希)LOVEだったので、定子が亡くなってからも中宮(正妻)の彰子(見上愛)には見向きもしてくれません。。。
それどころか、亡き定子の面影を求め、定子の妹・御匣殿を可愛がり、妊娠させるほど(^_^;)
御匣殿は妊娠中に亡くなったため、御匣殿が育てていた 定子との間にできた第一皇子・敦康親王を彰子に育てさせたのです(><)
道長は「何としてでも彰子に皇子を産ませるんだ!」という目的で、紫式部を女房につけたのです。
一条天皇に振り向いてもらいたい彰子は、定子が漢詩の知識を持っていて一条天皇と話が弾んでいたことから、紫式部に漢詩を教えてもらいます。
紫式部は中国の詩人・白居易が著した『白氏文集』を“こっそり”教えた。
一条天皇が以前『源氏物語』を読んだ際、「これを書いた人は『日本書紀(日本紀)』(奈良時代に成立した歴史書)の知識がある」と褒める
↓
それを聞いた女房が紫式部のことを「日本紀のお局」と悪口を言う
↓
紫式部はいじめられて5ヶ月引きこもったくらいだから、悪口を気にして、他の女房がいない2人だけの時にこっそり教えた
そんな彰子の努力が報われた(一条天皇は『源氏物語』が読みたくて彰子のところに通ったという説も汗)ため、彰子は嫁いで9年、20歳の時に一条天皇の子を授かります。
1日半かかっためちゃめちゃ難産の末、1008年に彰子は一条天皇の第二皇子となる敦成親王を出産しました。
道長はめちゃめちゃ喜び、敦成親王がお洩らしをして自分の着物が濡れてしまっても喜んだとか(笑)
敦成親王は後に三条天皇が退位した後、後一条天皇となる。
三条天皇は眼病を患い、視力も失ったと言われており、
- 視力が失ったこと
- 内裏(天皇の私的区域)が焼失したこと
などにより、道長から譲位を迫られる。
三条天皇は自分の第一皇子である敦明親王を皇太子にすることを条件に譲位したが、敦明親王は道長の無言の圧力で自ら皇太子を辞退した。
その見返りとして道長は、敦明親王に准太上天皇(譲位した天皇・太上天皇に準ずる待遇のこと)を与え、娘も嫁がせるなど礼を尽くした。
彰子は翌年にも一条天皇の第三皇子となる敦良親王を出産します。
敦良親王は後に後一条天皇(彰子が産んだ第二皇子・敦成親王)が退位した後、後朱雀天皇となる。
三条天皇の第一皇子である敦明親王が皇太子を辞退した後、皇太子となった。
後一条天皇は皇子に恵まれないまま亡くなったため、敦良親王が天皇となった。
一条天皇は病気のため、いとこである三条天皇に譲位します。
一条天皇は定子との子・敦康親王を皇太子にすることを望んでいました。
しかし藤原行成(渡辺大知)は、
「道長が実権を握ってるから、それは止めたほうがいい。敦康親王の身を案じるなら、彰子との子(道長の孫)を皇太子にすべき」
的なことを進言します。
藤原行成は、一条天皇の蔵人頭(上から4番目の地位)であり、一条朝の四納言の1人。
一条朝の四納言は、一条天皇時代に活躍した4人の公卿(上級の高官)のこと。
そのため、彰子との子で第二皇子である敦成親王が皇太子となり、道長は「次の天皇の祖父」という立ち場を手に入れたのでした。
三条天皇に譲位後、同年に一条天皇は出家しますが、出家して3日後に32歳という若さで亡くなります。
そして前述の通り翌年、中宮・彰子(見上愛)が皇太后となったのです。
同年、道長は三条天皇に入内(結婚)させていた次女・妍子を中宮にします。
三条天皇は長年の妻であった藤原済時の娘・娍子LOVEだったので、
- 中宮→妍子(道長の娘)
- 皇后→娍子
という、二后並立状態になったのです。
一条天皇のときの定子と彰子みたい
藤原済時は、一条天皇の時代、道長の兄・道隆(井浦新)を補佐してた人だよ
1013年、妍子(道長の次女)は三条天皇の第三皇女となる禎子内親王を出産します。
皇子ではなかったので道長は悔しがりました。
死因
『光る君へ』の主人公・紫式部の亡くなるまでの年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
1014 | 紫式部・死亡(45歳) |
詳しく解説していきます♪
紫式部が宮中を去ってからどうなったのかについては、未だ明らかになっていません。
紫式部は以前から出家したがっていたようですが、念願の出家ができたのかも謎のまま。。。
亡くなる1014年頃、越後守をしている父・藤原為時(岸谷五朗)に和歌を送ったとされています。
そして、45歳ごろに亡くなったということですが、死因も不明です。
平安時代中期の貴族の推定平均寿命は、男性が50歳、女性が40歳という情報もありましたので、紫式部は割と長生きだったんですね。
時代背景
紫式部が宮中を去ってからの時代背景についても解説します。
紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)は1014年、越後守の任期を1年残して帰京します。
これは紫式部が直前に亡くなったからではないかと言われており、為時はその2年後に出家しました。
前述の通り、道長は次女・妍子を三条天皇に嫁がせていましたが、妍子が産んだのは女の子だけ。
その後も皇子に恵まれなかったため、道長は三条天皇に早く譲位するよう迫ります。
そのころ三条天皇は眼病を患っていたので、1016年、三条天皇は眼病などを理由に譲位し、後一条天皇(彰子の子、道長の孫)が即位します。
藤原道長(柄本佑)は9歳の天皇の外祖父として摂政となったのです。
道長はその後、
三女・威子を後一条天皇(彰子の子、道長の孫)の中宮にする(1018年)
六女・嬉子を敦良親王(彰子の子、道長の孫であり、後の後朱雀天皇)に入内させる(1021年)
ということを行い、ますます地位を盤石にしていきました。
最終的に、道長は4人の娘を天皇に嫁がせ、3人の天皇の祖父となったのです。
【天皇に嫁がせた4人の娘】
- 彰子→一条天皇
- 妍子→三条天皇
- 威子→後一条天皇(彰子の子)
- 嬉子→後朱雀天皇(彰子の子)
【道長の孫である天皇】
- 彰子の子→後一条天皇、後朱雀天皇
- 嬉子の子→後冷泉天皇(第70代天皇)
1017年に摂政の座を長男・藤原頼通に譲りましたが、その後も頼通の後ろ盾となって影響力を持ち続けました。
藤原頼通は1067年に関白を辞任するまで権力を持っていましたが、頼通の娘は皇子を産むことができなかったため、その後、勢力は衰えていったのです。
4コマ風に超簡単まとめ!
『光る君へ』の主人公・紫式部の生涯を、超簡単に4コマ風でまとめてみました♪
詳しい詳細は、前述の解説をお読みください(*^^*)
光る君へ解説!
妻が『光る君へ』に期待しない理由(源氏物語解説?漫画)。 pic.twitter.com/HKzoD7uoDj
— ツキハル@イラストレーター (@Motonomi_) January 6, 2024
大河ドラマ『光る君へ』を見ていて、筆者が「ん?どういうこと?」と気になったことを調べて解説していきます!
用語解説
『光る君へ』で筆者が「何だその意味?」と思った用語と、その意味をまとめました!
50音順で並べていますので、参考にしていただければ幸いです(*^^*)
あ行
用語 | 意味 | シーン |
青ざし | 青麦の粉で作られたお菓子。 | 28話で、清少納言が定子に差し出していた。 詳しいエピソードはこちら。 |
朝臣 | 飛鳥時代に制定された八つの姓(その人の位階を示す称号)の中で、上から2番目。 1番目は主に皇族に与えられたため、朝臣は臣下の中で事実上の最高位。 平安時代は、公卿(参議以上)は氏の下に「朝臣」という敬称がくっついた。 | ex.)藤原朝臣道兼。 |
油小路 | 京都府京都市にある通り。 | 30話で、惟規は油小路の女性のところに通っていた。 |
淡路守 | 兵庫県淡路島の国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。 | 14話で、道隆一家に鯛をあげた人。 20話の、為時の越前守の前に決まっていた官職。 |
五十日の儀 | 生誕50日目に当たる夜に、子どもの誕生を祝い、成長を祈る儀礼のこと。 現代の「お食い初め」的な感じ。 匙でお餅の汁をすくい、それを子どもの唇に軽く付ける。 | 36話で、敦成親王の五十日の儀が行われた。 |
位記 | 位階を授けられた者に、位階のことを伝える公文書。 | 30話時点の、惟規の仕事の一つ。 |
出雲権守 | 出雲(現在の島根県東部)の国司(地方の国を治める役人)の中で、1番上の階級の権官。 権=仮という意味。 | 20話で、隆家が言い渡された官職。 |
伊勢 | 現在の三重県の北中部や愛知県の一部、岐阜県の一部。 | |
為政者 | 政治を行う者のこと。 | |
伊勢守 | 伊勢(現在の三重県の北中部など)の国司(地方の国を治める役人)の中で、1番上の階級。 | |
一条朝の四納言 | 一条天皇時代に活躍した、以下の4人の公卿(上級の高官)のこと。 道長を積極的に支え、全員が権大納言(大雑把に分けると3番目に偉い)以上となった。
| |
一献傾けたい | 一緒にお酒を飲むこと。 | 3話で道兼が道長に言っていた。 |
一天万乗 | 天皇のこと。 | |
石見の国 | 現在の島根県西部(石見地方)。 | 19話で、租税を1/4免除されていた国。 |
飲水病 | 現代の糖尿病のこと。 | 17話の、道隆の死因。 後に道長も同じ病で死亡する。 |
宇佐八幡宮 | 大分県にある神社。 | 27話で、宣孝は宇佐八幡宮の奉幣使となった。 |
丑の刻 | 現在の午前2時の前後2時間ごろのこと。 | 花山天皇を内裏から連れ出した時間帯。 |
右大臣 | 官職の1つ。 大雑把に分けると貴族の中で2番目に偉い。 | 1話で兼家が就いた官職。 |
袿 | 皇族や貴族の女性が着る着物の一つ。 | 花山天皇を出家させる時、羽織らせていた。 |
卯の刻 | 午前6時の前後2時間ごろ。 | 9話で、散楽が出発する時間と言われていた。 |
右兵衛権佐 | 天皇やその家族の護衛をする部署「兵衛府」の役割の一つ。 次官であり、公卿への昇進コースであったため、上流貴族の子どもが多く任じられた。 | 2話時点の道長の官位。 |
産養 | 平安時代の貴族が行っていた通過儀礼の一つ。 子どもが生まれた日=初夜といい、初夜から、3・5・7・9日目にあたる各夜に祝宴を行う。 各夜は親戚から、
などが贈られ、和歌や音楽を楽しむ。 | |
右馬允 | 朝廷が保有する馬の飼育・調教にあたった「右馬寮」のNo.3。 | 34話で、興福寺の僧が右馬允を解任しろと要求していた。 |
梅壺の女御 | 梅壺は、天皇の后の住まい・後宮の一つで、庭に紅白の梅が植えてあったため梅壺。 女御は天皇の后。 天皇の后の位は、「皇后=中宮>女御>更衣」。 | 詮子(吉田羊)の呼び名。 |
温明殿 | 内裏(天皇が住んでいる場所)の館の一つ。
がある場所。 | 32話で、出火した場所。 |
叡意 | 天皇の意見。 | |
えい慮 | 天皇のお考えやお気持ちのこと。 | |
越前 | 今の福井県北部。 | |
右衛門権佐 | 内裏(天皇が住んでいる場所)の外の囲いを警備する職業。 「佐」は次官のことであり、「権」は仮という意味。 | 25話時点の、宣孝の官職。 |
王維 | 唐(中国)の最盛期の高級官僚で、時代を代表する詩人。 | 11話でF4が論じていた。 |
近江 | 現在の滋賀県。 | 15話で、まひろ&さわが行った石山寺がある場所。 |
大原野社 | 現在の「大原野神社」のこと。
「藤原氏の氏神三社」の一つ。 藤原氏の家に女の子が生まれると、その子が皇后・中宮になれるように祈願した。 その後、藤原氏出身の后が祭祀に参列するようになった。
定子は出家していて祭祀はできない。 そのため行成は「彰子を中宮にすべき」と一条天皇に進言した。 | 28話で、行成が話題にしていた。 |
大間書 | 除目(官職を任命する儀式)で、欠員の官職名とその候補者を書いた名簿のこと。 | 33話で、道長は伊勢守の大間書を空欄にした。 |
おかしきことこそめでたけれ | 面白い(滑稽含む)ことこそ、心が引かれる。 | 6話で直秀が言っていた。 |
お隠れ | 身分の高い人が亡くなったこと。 | |
お上 | 天皇の敬称。 | 天皇の呼び方。 |
押し出しがいい | 容貌や態度が立派なこと | 道隆を褒める時に言っていた。 |
落としだね | 身分の高い男性が、正妻以外の身分の低い女に生ませた子。 | 4話で「まひろは本当に帝の落としだね〜」と言っていた。 |
お召し | 「呼ぶ」「招く」の尊敬語。 | 帝のお召しがない。 |
おもねる | その人に気に入られようと、機嫌を取ったり媚びたりすること。 | |
お渡り | 一夜を共にすること。 お通いも同じような意味。 | 今宵は天皇は〇〇様にお渡りよ〜 |
恩赦 | 刑罰の全てor一部を、消滅or軽減させる制度のこと。 ex.)現代だと、懲役5年になった人を釈放したり、懲役2年にしたりする。 | |
陰陽寮 | 占いや天文、時、暦の編纂を担当する部署。 吉凶を占ったり、土地の良し悪しを判断したりもする。 | 安倍晴明がいる部署。 |
遠流 | 追放刑の一種・流罪の中で1番重い。 京都から遠く離れた土地に流される。 | 20話で、伊周&隆家が受けた処罰。 |
か行
用語 | 意味 | シーン |
貝覆い | ハマグリの貝殻を左右切り離す ↓ 複数の中から、対になるものを見つけるという遊び。 | 29話で、彰子が1人で遊んでいた。 |
加冠役 | 男性の成人の儀式・元服で、烏帽子を被せる役のこと。 | 一条天皇の元服の加冠役は兼家だった。 |
科挙 | 中国の高級官僚を登用するための試験制度のこと。 587年ごろ〜1905年の約1300年間にわたって行われた。 | |
神楽の人長 | 神に奉納するために舞う人たちの長。 行事の進行も行う。 | 27話で、宣孝は賀茂臨時祭の神楽の人長となった。 |
かけくらべ | かけっこのこと。 | 道長の五男・せ君の好きなこと。 |
蜻蛉日記 | 兼家の妾・寧子(財前直見)が書いた日記。
などが書かれている。 女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』にも影響を与えた。 | |
賢所 | 三種の神器(帝の象徴)の一つである八咫の鏡(神聖な鏡)を祀る場所。 | 32話の火事で火が回った場所の一つ。 |
かったつ | 広い心を持っており、小さいことにこだわらないさま。 | 6話で公任の歌を褒める時、清少納言が言っていた。 |
賀茂の社 | 上賀茂神社と下鴨神社を合わせた総称。 | 30話で、為時と賢子が出かけた場所。 |
賀茂臨時祭 | 京都の上賀茂神社と下鴨神社で行われる冬のお祭りのこと。 59代・宇多天皇の願いで始まり、その後は恒例となった。 | 27話で、宣孝は賀茂臨時祭の神楽の人長を務めることになった。 |
荷葉の香り | 蓮の花を想わせる爽やかで日本らしい夏の香り。 | 36話で、彰子はこの香りを嗅いで気持ち悪くなってしまった。 |
迦陵頻 | 日本の古典音楽・雅楽の演目「林邑八楽」の一つ。 林邑八楽は、インドシナ半島東南部にあった王国の僧がもたらしたインド系の踊り。 奈良時代に伝わったものであり、全部で8曲ある。
迦陵頻は子どもが4人で踊る舞。 | 26話で、道長の長男が道長に披露していた。 |
漢詩 | 中国の伝統的な詩。 | |
官職 | 朝廷での役職。職業。 | |
勘申 | 朝廷で、儀式や行事などの先例や日時、吉凶を調べ、報告すること。 | |
関白 | 成人した天皇を補佐する役割。 天皇が物事を決める前に、内容を吟味する権利があった。 | |
帰去来の辞 | 中国の文学者・陶淵明の詩。 世の中に嫌気が差し、役人の地位を捨てて故郷である田舎に帰るときの決意を歌ったもの。 | 10話で道長に漢詩を送る際、まひろが引用していた。 |
北の方様 | 身分の高い人の妻の呼び方。 (寝殿造りにおいて、妻は「北の対」という場所に住んでいたから) | ちはやの呼び名。 |
牛車 | 牛が引っ張る車。 男車と女車があり、男性が乗る時は簾を上げ、女性の時は下げる。 | |
儀同三司 | 格式が三大臣(太政大臣・左大臣・右大臣)と同じであること。 伊周は儀同三司を自称していた。 | 32話時点での伊周の異名。 |
擬文章生 | 大学寮で詩文や歴史を学び、試験に合格した人のこと。 この後、式部省(大学寮を統括する省)が作った試験に合格すれば、文章生になれる。 | 15話で、惟規が合格していた。 |
京極 | 京の端っこのこと。 | 17話で、隆家が伊周に京極の女の所に行くのかと聞いていた。 |
公達 | 皇族や、摂関家の子どものこと。 | 8話で赤染衛門が直秀を褒める時に言っていた。 |
金峯山 | 現在の奈良県吉野郡にある山々の総称。 金峯山寺に参拝に行くことを「御嶽詣」と言う。 | 34話で、道長は御嶽詣のため金峯山に向かった。 |
公卿 | 貴族の中でも、国政を担う最高の職位。 太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議といった高官を指す。 | 除目を行っていた人々。 |
薬師 | 医者。 | |
『口遊』 | 平安時代中期に作られた児童向けの教科書。 | 34話で、伊周が敦康親王にプレゼントしようとした。 |
口減らし | 家計の負担を軽くするため、子どもを養子に出したりして、養う家族の人数を減らすこと。 | 周明は口減らしのために海に捨てられた。 |
厨 | 台所。 | |
蔵人所 | 事務を行う場所。 天皇の秘書的な役割をした。 | 2話時点の藤原実資の官職。 |
慶賀奏上 | 官位を授けられた者が、参内して天皇にお礼・喜びを申し上げること。 | 道兼は慶賀奏上から7日で死亡した。 |
傾国の中宮 | 天皇が心を奪われ、政治を疎かにして国を危うくするほどの美人妃。 | 26話で、実資が定子を「傾国の中宮」と呼んでいた。 |
家司 | その一家の
を担当する職員のこと。 | |
閨房 | 寝室のこと。 | |
懸想 | 恋すること。 | 3話で詮子が道長に「下々の女子に懸想して〜」と言っていた。 |
下人 | 身分が低い者や召使いのこと。 下男は男性の召使い、下女は女性の召使い。 | |
検非違使 | 京都の治安維持をする役職。 | |
氣比宮 | 現在の新潟県長岡市。 | 24話で、為時が巡察してきた場所の一つ。 |
解文 | 下級の身分の者が、上位の者に意見する文書のこと。 | 34話で、興福寺の僧が道長に提出していた。 |
玄海 | 福岡県と佐賀県の北西部に広がる玄界灘のこと。 | |
玄怪録 | 幽霊や化け物などの話が書かれた中国の小説集。 | 23話で、宣孝が為時へのお土産で持ってきていて、まひろが喜んでいた。 |
玄輝門 | 内裏(天皇が住んでいる場所)の内側にある門のことであり、北正面にあった。 | 花山天皇を出家させる時、通った場所。 |
研さん | 学問を深く究めること。 | 3話で道長や公任が行っていた。 |
剣璽 | 帝の証である、
を併せた名前であり、天皇であるためには剣璽をそばに置いておかないといけない。 | 花山天皇を出家させる際、道隆たちが持ち出していた。 |
還俗 | 一度出家した人が、再び俗人(世間一般の人)に戻ること。 | |
元微之 | 唐(中国)の詩人で、白居易(白楽天)の親友。 | 6話で公任の歌を褒める時、清少納言が名前を出した。 |
元服 | 男性が成人になったことを示す儀式。 現代でいうと成人式的な。 | |
鴻恩 | 大きな恩。 | |
綱紀粛正 | 国の法律を引き締め、不正を厳しく取り締まること。 | 20話で、伊周らの罪について一条天皇が言っていた。 |
後宮 | 天皇の后が住む場所。 | |
庚申待 | 人の体には虫が住んでいて、庚申の日(60日に1度)の夜に神のもとに行く。 そして、悪い行いを告げ口すると信じられていた。 そのため庚申の日は虫が体から抜け出さないよう、皆で寝ずに歌や楽器をして過ごした。 | |
後涼殿 | 天皇の妻である女御や更衣が住む場所。 女御や更衣の身分は、天皇の妻の中では低め。 | |
香炉 | 線香やお香を焚く時に使用する器のこと。 | 29話で、倫子が彰子のために持って行こうとしていた。 |
「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」 | 中国の詩人・白居易の一説。
という意味。 詳しくはこちらで解説。 | 16話で、定子が清少納言に投げかけた質問。 |
子飼い | 目をかけて養った部下。 | 2話で為時が、「兼家の子飼いだから出世できないのか?」と話していた。 |
弘徽殿女御 | 弘徽殿は後宮(天皇の后の住居)で最も格の高い御殿。 女御は天皇の后のことで、天皇の后の位は、「皇后=中宮>女御>更衣」。 | 4話時点での花山天皇の妻・忯子の呼び名。 |
古今和歌集 | 60代天皇・醍醐天皇(円融天皇の祖父)の命により作られた最初の勅撰和歌集。 勅撰和歌集は、天皇や上皇の命で作られた歌集のこと。 全20巻であり、在原業平や小野小町の歌が収録されている。 | 赤染衛門やまひろが暗記していた。 |
国司 | 地方の国を治める役人。 | |
国守 | 国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。 | 為時は越前の国守となった。 |
曲水の宴 |
というイベント。 | 34話で、道長の屋敷で行われた行事。 |
国府 | 国司(地方の国を治める役人)が仕事する施設がある都市。 現在の「県庁所在地」的な感じ。 | |
国母 | 天皇の母のこと。 | |
ご沙汰 | 天皇の指示・命令のこと。 | |
腰結 | 裳着において、女子に初めて裳(十二単の着物の一つ)を着せる役。 人望がある人が腰結に選ばれた。 | 2話でまひろの裳着の際、宣孝がまひろの前で何かやってたやつ。 |
五節の舞 |
の後に行われる饗宴・豊明節会において、歌謡に合わせて未婚の女性4〜5人で舞うこと。 | 4話でまひろが舞っていた。 |
木幡山 | 京都府京都市伏見区にある山のこと。 | 33話で、お坊さんが集まっている場所。 |
ご不例 | 体調が優れないことを敬う言い方。 | |
駒牽の上卿 | 駒牽は毎年8月に行われた宮中行事の1つ。 牧場から献上された馬を、天皇の前で披露 という手順。 駒牽の上卿は、この行事の筆頭者(主催者)。 | 38話で、実資が頼通に指南しようとしていた。 |
高麗人 | 朝鮮民族。 | 2話で天皇に報告していた。 |
権大納言 | 官職の一つで、大雑把に分けると3番目に身分が高い。 現代の国務大臣に相当する高官。 なお「権」は「仮」という意味。 | 4話で五節の舞姫になった1人の父親の官職。 15話時点での、道長&伊周の官職。 |
権中納言 | 官職の一つで、大納言に次ぐ重職。 なお「権」は「仮」という意味。 | 8話時点の義懐の地位。 |
さ行
用語 | 意味 | シーン |
斎院 | 賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕する未婚の皇女のこと。 | 35話で、惟規が忍び込んだ場所。 |
宰相 | 中国の皇帝を補佐した最高位の官職(≒総理大臣)。 | 周明は、宰相の侍医になりたがっていた。 |
歳星が二十八宿の氐宿を犯す日 | 「木星がてんびん座α星にめちゃくちゃ近づく日」という意味。 歳星→木星 二十八宿→天球を28エリアに分割したもので、中国の天文学・占星術で用いられた 氐宿→てんびん座α星のことであり、婚礼・酒造・種蒔は吉だが、その他は凶とされる | 花山天皇を出家させる日付けを決める際、言っていた。 |
蔵王権現 | 道長が御嶽詣に行った金峯山寺本堂の本尊のこと。 | 35話で、道長が経典を埋めた場所。 |
朔平門 | 内裏(天皇が住んでいる場所)の外側にある門のことであり、北正面にあった。 | 花山天皇を出家させる時、牛車を待機させた場所。 |
左少弁 | 各省とその傘下の役職を監督する仕事。 | 38話時点の、為時の官職。 |
左中将 | 天皇やその家族の護衛をする部署の次官。 | 12話時点での実資の職業。 |
障り | 生理のこと。 | |
散位 | 官職についておらず、位階だけ持っている人。 | 20話までの為時。 |
散楽 | 中国から伝わった芸能。 滑稽なモノマネや軽業、曲芸などを行う。 | |
参議 | 貴族の中でも、国政を担う最高の職位(公卿)の中の1人。 公卿の中では低い地位だが、大雑把に分けると全体で4番目くらいに偉い。 | 7話時点の義懐の官職。 15話時点の道綱&公任の官職。 |
参内 | 宮中に出仕すること。 出勤的な。 | |
三位中将 |
という地位&役職のこと。 | 6話時点での道隆の呼び名。 |
侍医 | 天皇や皇族の診療に当たる医師のことで、最高位の医官。 | 周明は、宰相の侍医になりたがった。 |
歯牙にもかけない | 全く気にしない。 | 24話で、隆家は左遷されたことについて歯牙にもかけないと言っていた。 |
史記 | 中国の歴史家・司馬遷が編纂した歴史書。 | 1話でまひろが興味を持った書物。 定子が清少納言に紙をあげたきっかけに出てきた。 |
職御曹司 | 皇后・皇太后・太皇太后に関する事務所がある場所。 内裏(天皇が住んでいる場所)の東北方に隣接していた。 | 15話で、詮子が追いやられた場所。 24話で、定子が戻ってきた場所。 |
式部省 | 人事や礼式、役人養成機関である大学寮を統括する省のこと。 八省ある中で、2番目に重要な省とされている。 | 為時が望んでいた官職。 |
式部省試 | 式部省(大学寮を統括する省)が実施する試験。 擬文章生(大学寮での試験に合格した人)に受験資格がある。 合格すれば、大多数は合格順で官職につける。 | |
直盧 |
などが宿直・休憩を行う個室のことで、事実上の執務室として使われる場合もある。 | 11話で兼家が使っていた。 |
獅子奮迅 | ライオンが荒れ狂ったように、すごい勢いで奮闘すること。 | 9話で、倫子サロンの姫が道長を褒める時に言っていた。 |
四十の賀 | 40歳になったことを祝うお祝い。 | |
四条宮 | 関白(5話時点)・藤原頼忠、公任(町田啓太)の邸宅。 | |
四条万里小路 | 現在の柳馬場通(京都市内の南北の通りの一つ)辺り。 | 散楽をやっている広場の辺り。 |
昵懇 | 親しい付き合いのある関係。 | |
室礼替え | 季節や行事に合わせ、お部屋に調度品や装飾品を置くこと。 | 15話で、道隆が公費で定子の室礼替えをしようとしてた。 |
紫微垣 | 北極星周囲の区画。 古代中国天文学で使われた名前。 | 1話冒頭、安倍晴明が言っていた。 |
除目 | 官職を任命する儀式。 | |
尺 | 長さの単位で、一尺=約30cm。 | 道長を探す際、身長は6尺以上と言っていた=180cm以上。 |
射礼の上卿 | 射礼は毎年1月17日に行われた宮中行事の1つで、弓競技。 1月15日に射手候補を選抜 という手順。 射礼の上卿は、この行事の筆頭者(主催者)。 | 38話で、実資が頼通に指南しようとしていた。 |
12年に一度の犯 | 木星の公転周期がほぼ12年。 =歳星が二十八宿の氐宿を犯す日も12年に1度ということ。 | 安倍晴明から花山天皇を退位させる日を提案され、兼家が言っていた。 |
従五位下 | 位階の一つで、上から14番目に偉い。 | 8話時点の道長の官位。 19話時点の為時の官位。 |
従四位下 | 位階の一つで、上から10番目に偉い。 | 12話時点での道綱の地位。 |
入内 | 天皇の后になること。 現代でいうと結婚。 | |
従二位 | 位の一つで、上から4番目に偉い。 | 8話時点の義懐の地位。 31話時点の斉信の地位。 32話時点の公任の地位。 |
荀子 | 中国戦国時代末の思想家・儒学者(孔子を始祖とする思考・信仰を学ぶ人)。 「人間の本性は悪である」という「性悪説」を唱えた。 | |
荘園 | 貴族が持っていた私有地。 | |
荘園整理令 | 荘園からは税金を取れないため、
ことを行った法令。 60代天皇・醍醐天皇(円融天皇の祖父)が最初に発令し、
も発令した。 | 第5話で花山天皇が発令していた。 |
貞観政要 | 唐(中国)の第2代皇帝・太宗の政治に関するやり取りを記録した書。 太宗は天下を統一し、優れた政治力を見せた皇帝である。 一条天皇が言っていた、 「煬帝の隋が滅びたのは、兵の備えを怠ったからではない。 民をおろそかにした政治を行ったからである」 的なことも書いてある。
隋は、唐の前に中国を統一していた王朝。 中国史を代表する暴君である第2代・煬帝の失政により、反乱が起きて滅亡した。 | 16話で、一条天皇が引用し、道隆に言っていた。 |
障気 | 悪い空気。 | 8話で安倍晴明が「障気が強い」と言っていた。 |
正五位下 | 位階の一つで、上から12番目に偉い。 | 31話時点の頼通の官位。 37話時点の為時の官位。 |
正四位下 | 位階の1つで、上から8番目に偉い。 | 12話時点での実資の地位。 |
上巳の祓の日 | 3月の最初の巳の日(約12日に1度来る吉日)に水辺でお祓いし、邪気を払う神事。 | 34話で、上巳の祓えの日に曲水の宴が行われた。 |
上首尾 | 物事がうまくいっていること。 | 詮子からの文に書かれていた。 |
少丞 | 式部省の職員の1人で、高官。 | 為時が望んでいた官職。 |
上奏 | 天皇に意見を言うこと。 奏上とも言う。 | |
正二位 | 位の一つで、上から3番目に偉い。 | 18話時点の道兼の官位。 21話時点の道長の官位。 32話時点の実資の官位。 37話時点の伊周の官位。 |
笑裏蔵刀 | 表向きは優しいが、本当は腹黒いこと。 | 11話で伊周が道隆を評していた。 |
正六位上 | 位の一つで、上から15番目に偉い。 | 19話時点の為時の官位。 |
叙爵 | 上から14番目に偉い従五位下を授けられ、貴族として認められること。 | 19話で、為時が従五位下になった時に言っていた。 |
しるしの帯 | 懐妊を祝い、5ヶ月目の吉日に妊婦さんがお腹に締める帯のこと。 | 36話で、一条天皇が彰子の懐妊祝いに送っていた。 |
しれ者 | 愚かなバカ者。 | 花山天皇のこと。 |
新楽府 | 漢詩の形式の一つ。 中国の文学者・白居易の『白氏文集』の新楽府50篇は当時の政治・社会批判をしてる。 後に藤原行成が書写し、一条天皇に献上している。 | 18話で、惟規が学生の間で流行っていると言っていた。 |
親王家別当 | 親王家(天皇の息子)の事業・雑務を担当する長官のこと。 | 33話時点の行成の職務。 |
陣定 | 偉い人たちだけ(天皇は除く)で行われる重要な会議。 左大臣や右大臣、大納言、中納言、参議といった高官が出席。 外交や財政などを話し合う。 | |
好き者 | 物好きな人。 | 花山天皇のこと。 |
宿世 | 前世。 | 35話で読んでいた『源氏物語』の「若紫」の帖に出てくる。 |
介 | 地方を治める役人・国司の次官(=No.2)。 | |
素腹 | 妊娠しないこと。 | 定子は「素腹の中宮」と呼ばれていた。 |
「天皇が詔旨らまと〜」 | 天皇の命令を述べる言葉。 実資は、 「天皇の命令を言う。天皇の息子たち、皇族たち、大臣たち、役人たち〜」 という意味のことを言っていた。 | 28話の彰子立后の儀で、実資が言っていた。 |
受領 | 国司(地方の国を治める役人)のうち、現地に行って行政責任を負う筆頭者のこと。 | |
受領功過定 | 任期を終えた国司の働きを公卿(高官)が評価する成績審査会議。 | |
清涼殿 | 天皇が生活する御殿のこと。 | |
「関の荒垣や 守れども はれ守れども 出でて 我寝ぬや 出でて」 | 平安時代に盛んになった古代歌謡『催馬楽』の一つ「河口」という歌。 意味は、 「河口の関所の荒垣(大きい垣根)よ。 私を守っていたけれど、私は抜け出して寝てしまったよ」 であり、超訳すると、 「大きい垣根が私を守ってたけど、私はとっくに恋人と一夜を共にしたのよ」 | 25話で、宣孝がお酒の席でまひろの方を見ながら歌っていた。 |
赤痢 | 急性腸炎。 発熱や嘔吐、下痢といった症状が起きる。 平安時代、京やその周辺で大流行し、多くの子どもが亡くなったと言われている。 | 12話で実資が罹っていた。 |
詮議 | 罪人の取り調べや捜査のこと。 | 9話で、「獄でたっぷり詮議」と言っていた。 |
千尋の谷 | 1500mもの高さがあるような、非常に深い谷。 | 19話で、まひろが為時に「千尋の谷に飛び込む気持ちで〜」と言っていた。 |
宣旨 | 天皇の意向を伝えること。 | |
践祚 | 天皇の地位を受け継ぐこと。 なお即位は天皇になったことを宣言する儀式のことであり、践祚と即位は若干異なる。 | |
宋 | 中国のこと。 | |
増長 | つけ上がって高慢になること。 | 2話で「兼家が増長しないように遵子を中宮にしたのでは?」的なことが言われていた。 |
束帯 | 平安時代の貴族の正装で、朝廷に出仕する時などに着る。 ※女性の「十二単」の男性版
官位によって色が決まっている。
| |
杣道 | 木こりしか通らないような細くてけわしい山道のこと。 | 35話で、伊周から道長を守るため、隆家が誘導していた場所。 |
た行
用語 | 意味 | シーン |
タアハア トヲリョロ | おそらく、管楽器の横笛・龍笛(一条天皇が吹いてた)の楽譜に出てくる唱歌(歌詞)のこと。 | 16話で、隆家が舞いながら歌っていた。 29話で、伊周の長男・松が練習していた。 |
大学寮 | 式部省直轄の、官僚育成のための最高教育機関。 | |
大元帥法 | 私的に禁じられていた真言密教の秘術(呪術)。 | 伊周は、この呪術を行ったとされた。 |
大極殿 | 朝廷の中心となる建物のこと。
が行われた場所であり、現在は跡地に史跡が残されている。 | 34話で、興福寺の僧が集まっていた場所。 |
大赦 | 犯罪者の刑を消滅させ、判決の効力を失効させること。 現代だと、懲役5年の人を大赦するとなったら、すぐに釈放的な。 昔は天皇などが病気になると、大赦が行われた。 | |
大掾 | 地方を治める役人・国司の第三等官(=No.3)。 | |
太政官 | 司法・行政・立法を司る最高行政機関。 | |
太政大臣 | 1番偉いが、名誉職みたいなもの。 | 12話時点での頼忠の地位。 |
太宗 | 唐(中国)の第2代皇帝のこと。 天下を統一し、優れた政治力を見せた。 | 6話で公任の歌を褒める時に名前が出てきた。 |
大納言 | 官職の1つ。 大雑把に分けると貴族の中で3番目に偉い。 | 1話冒頭時点での兼家の官職。 16話時点での道長の官職。 |
内裏 | 天皇が住んでいる私的区域。 別名「大内裏」。 | |
高辻富小路 | 京都の地名。 | まひろが代筆をしてた絵師がいる場所。 |
高松殿 | 明子の父・源高明の邸宅のこと。 明子はここに住んでいるため、「高松殿」と呼ばれることもある。 | |
高御座 | 天皇の玉座。 | |
打毬 | 白組・赤組で戦う団体戦。 地面に置かれた自分の組の色の球を、乗馬した状態で網付きの棒ですくってゴールに入れる。 現代の「ポロ」に似た感じ。 馬&棒付きの「玉入れ」っぽいルールでもある。 | |
竹三条宮 | 定子出産の際に提供された、平生昌の屋敷。 定子はここで、 を出産し、亡くなった。 その後、竹三条宮は定子の子に献上され、後に脩子内親王(第一皇女)が住んだ。 | 36話時点で、清少納言はここで脩子内親王に仕えている。 |
竹取物語 | 平安時代前期に成立し、「現存する日本最古の物語」とされている。 作者は不明。 現代では『かぐや姫』というタイトルで知られる。 | 4話で倫子サロンで取り上げられていた。 |
武生 | 福井県中部にあった市。 越前国の国府(現代の県庁所在地的な場所)が置かれていた。 | 武生の商人とのいざこざで通事は事故死した。 |
大宰権帥 | 大宰府(現在の福岡県北西部)の長官・大宰帥の権官。 権=仮という意味。 | 20話で、伊周が言い渡された官職。 |
大宰少弐 | 筑前(福岡県北西部)に設置された地方行政機関・大宰府の次官。 | 18話時点の宣孝の官職。 |
大宰府 | 筑前(福岡県北西部)に設置された地方行政機関。 軍事や外交をした。 | 2話で天皇に報告していた。 |
辰の日巳の刻 | 12日に一度巡ってくる十二支が辰にあたる日の、午前9時~午前11時ごろ。 | 1話のまひろと三郎の待ち合わせ日。 |
丹後 | 現在の京都府北部。 | |
丹波 | 現在の京都府中部、兵庫県北東部、大阪府の一部。 | 26話で、宣孝がまひろに丹波の栗を持ってきた。 |
契っている | 一夜を共にすること。 | |
筑前 | 現在の福岡県北西部。 | 2話で天皇に報告していた。 |
筑前守 | 筑前(福岡県北西部)の国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。 | 14話で、宣孝が就任。 |
嫡妻 | 正妻、正室。 | |
嫡男 | 正妻が産んだ最初の男子。 | |
中宮 | 天皇の后で、正室的な感じ。 天皇の后の位は、「皇后=中宮>女御>更衣」。 | 2話で遵子が円融天皇の中宮になっていた。 |
中宮大饗 | 毎年1月2日に、貴族達が中宮に面会して饗宴を受け、禄(金銭・物資)をもらう儀式のこと。 | 33話で開催された。 |
中宮大夫 | 中宮の身の回りの世話をする役所「中宮職」の長官。 | 15話時点の、道長の役職。 |
注進 | 事件や出来事を報告すること。 | |
中納言 | 官職の1つ。 大雑把に分けると貴族の中で3番目に偉い。 | 為時の祖父の官職。 |
朝堂院 | 内裏の大広間。
などが行われた。 | 34話で、興福寺の僧が集まっていた場所。 |
朝拝 | 元旦に天皇が祝賀を受ける行事のこと。 | |
勅定 | 天皇の命令。 | |
朕 | 天皇の一人称。 | |
通事 | 通訳のこと。 | |
筑紫 | 現在の九州地方。 | |
対馬 | 長崎県にある。 | 周明が生まれた場所。 |
土御門殿 | 左大臣・源雅信の邸宅であり、倫子らが住んでいる。 後に道長の邸宅となり、詮子や道長の娘・彰子もここに住んだ。 | |
堤 | 川の水が溢れ出ないように、土砂を高く築き上げたもの。 現代の土手的な。 | 25話で、大水に備えて道長が修繕しようとしていた。 |
つばき餅 | 柏餅や桜餅の前身ともいえる和菓子。 平安時代から食べられていたと言われており、『源氏物語』にも登場する。 | 一条天皇が好きなもの。 |
つぼね | 宮中などの御殿の中で、仕切りで作った部屋のこと。 | |
敦賀 | 現在の福井県南西部にある市。 | 宋人たちがいる松原客館がある場所。 |
手習い | 文字の練習、習字のこと。 | 13話で、一条天皇が嫌がっていた。 |
テン | イタチ科の動物。 | 周明が、松原客館にはテンの毛皮があると言っていた。 |
天蓬の星 | 北斗七星の第1星(おおぐま座のα星)。 | 1話冒頭、安倍晴明が言っていた。 |
天文密奏 | 異常な天文現象が起こった際、占いの結果と解釈を内密に天皇に知らせること。 | 26話で、安倍晴明が一条天皇に送っていた。 |
陶淵明 | 中国の文学者。 | 10話で道長に漢詩を送る際、まひろが引用していた。 |
登華殿 | 後宮(天皇の后が住む場所)の御殿の一つ。 | 15話で、定子が住んでいた。 |
東宮 | 皇太子。 | |
藤宰相 | 官職の一つで、大雑把に分けると4番目に身分が高い。 なお「藤」は「藤原氏の」という意味。 | 4話で五節の舞姫になった1人の父親の官職。 |
頭中将 |
を兼任する人のこと。 | 3話時点での実資の、15話時点での公任の官職。 |
咎人 | 罪を犯した人。 | 「母を殺害した咎人〜(=道兼のこと)」。 |
読書始 | 貴族の男子が、初めて学習を開始する時に行われる儀式。 | 1話で兼家と為時が花山天皇の読書始について話していた。 |
得度 | 出家すること。 | |
屠蘇 | 酒やみりんに5〜10種類の生薬を浸け込んだ薬草酒のこと。 | 29話で一条天皇が飲み、残りを宣孝が飲んでいた。 |
宿直 | 宮中や役所・貴族の邸宅の警備のため、宿泊勤務をする役目のこと。 夜勤的な感じ。 | 3話で道長、公任、斉信がしていた。 |
殿御 | 恋人や夫のこと。 | 2話で詮子が円融天皇のことを殿御と呼んでいた。 |
寅の刻 | 現在の午前4時の前後2時間ごろのこと。 | 花山天皇を出家させた時間帯。 |
鳥辺野 | 平安京の三大葬送地(死者を火葬場や墓地に送り出す場所)の一つ。 『源氏物語』にも登場し、現代でいうと、
が平安時代の鳥辺野の範囲とされている。 藤原道長もここで火葬され、藤原定子もここに埋葬された。 | 9話で、散楽が殺害された場所。 |
な行
用語 | 意味 | シーン |
内記 |
などを行う「中務省」に属している人。 天皇の公的な行動記録を残すことが仕事。 | 30話時点での、惟規の仕事。 |
内侍所 | 天皇の側で伝達や取りつぎ、宮中の礼式・雑事などを行う女官・内侍司がいる場所。 | 3話で実資が見聞していた。 |
典侍 | 天皇のそばで仕える秘書的な役割の役所・内侍司の次官。 女官で構成されており、学問・礼法に通じた有能な女性が多く任命された。 天皇が出かける際、帝の証である剣璽を持つ役目もあった。 | 10話で道隆たちに剣璽を渡した人。 |
内親王 | 天皇の娘or孫の女の子。 | |
内大臣 | 左大臣・右大臣に次ぐ官職のこと。 | 13話時点での道隆の官職。 16話時点での伊周の官職。 |
内覧 | 天皇が見たり許可を与えたりする必要がある文書を、天皇より先に見る役職のこと。 謂わば「政治を取り仕切る役目」であり、関白と同じ様な権限を持っている。 | 17話時点での、伊周の官職。 |
中務省 |
といった朝廷に関する職務全般を担った機関であり、最も重要な機関とされた。 | 32話時点で、惟規が働いている場所。 |
中関白家 | 道隆の家系のこと。(道隆、伊周、定子、隆家etc.) 道隆一家は、摂関政治を行った
の中継ぎとされているため、「中関白家」と呼ばれている。 | |
南秦雪 | 中国の文学者・白楽天の詩文集『白氏文集』に収録されている詩の一つ。 | 25話の、公任と清少納言の和歌のやり取りの元ネタ。 |
南都 | 現代の奈良のこと。 | |
新嘗祭 | その年に収穫された穀物を天皇が神に供え、自らも食べる儀式のこと。 | |
西洞院 | 京都市の主要な南北の通りの一つ。 平安京では、幅24mの大通りだった。 | 17話で、隆家が伊周に西洞院の女の所に行くのかと聞いていた。 |
二条北宮 | 定子(高畑充希)の実家。 | |
二条第 | 伊周が住んでいた場所。 | |
『日本紀』 | 奈良時代に成立した歴史書『日本書紀』のこと。 | 37話で、一条天皇は「藤式部は『日本紀』の知識がある」と言っていた。 |
女院 | 太上天皇(譲位して天皇を後継者に譲った天皇)に準ずる待遇を受けた女性のこと。 元々、皇后や皇太后、太皇太后は出家したら后妃の待遇は停止すると決まっていた。 しかし、当時皇太后だった詮子が出家すると、一条天皇の命令で「女院」となった。 | 16話で、詮子は女院になっていた。 |
女御 | 天皇の后。 天皇の后の位は、「皇后=中宮>女御>更衣」。 | |
女房 | 宮中や貴族に仕えた女性のことで、主人の身の回りのお世話や教育をした。 | |
人夫 | 力仕事をする労働者のこと。 | 26話で、人夫に鴨川の堤の修繕をさせていた。 |
布一反 | 生地の長さの単位。 着物の生地の場合、1着の着物を仕立てられる長さであり、約12mくらい。 | 13話で、子どもが売られた値段。 |
閨 | 寝室。 | 1話で宮中での噂話に出てきた。 |
直衣 | 平安時代以降の、男性の皇族や貴族の普段着。 | 16話、伊周は一条天皇の前で直衣だった=天皇の前なのにカジュアルな服だった。 |
は行
用語 | 意味 | シーン |
陪膳 | 天皇の食事の際、給仕をする人のこと。 | 2話で道兼が円融天皇に薬を盛らせた。 |
博多の津 | 現在の福岡市の博多港のこと。 | |
馬鹿の語源 | 『史記』の「指鹿為」 | 1話でまひろが三郎に話していた。 |
白氏文集 | 中国の文学者・白居易(白楽天)の詩文集。 後に紫式部は、彰子(道長の娘)に『白氏文集』をこっそり教えた。 | 18話で、惟規が学生の間で流行っていると言っていた。 |
白楽天 | 唐(中国)の漢詩人・白居易のこと。 | 6話で公任の歌を褒める時、まひろが名前を出した。 |
跋扈 | のさばっている。 | 2話で関白が、「盗賊が跋扈している」と言っていた。 |
跳ね返り者 | 軽薄な人のこと。 | 35話で、道長がまひろの幼い頃を「跳ね返り者」と評していた。 |
播磨権少掾 | 播磨(現在の兵庫県)の国司(地方の国を治める役人)の第三等官。 | 為時の過去の官職。 |
萬機 | 重要な政務のことで、主に天皇の政務を指す。 | |
東三条殿 | 兼家の邸宅。 詮子にとっては実家。 | 東三条殿に下がる=実家に帰る |
肥後守 | 現在の熊本県の国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。 | ききょうの父は、肥後守就任中に死亡した。 |
肥前 | 現在の佐賀県と長崎県のこと。 | さわは、父親と共に肥前に行った。 |
悲田院 | 貧しい人や孤児、身寄りのない老人を救うために作られた福祉施設。 | 16話で、疫病に罹った人が大勢いた。 |
人に忍びざるの心有り | 中国戦国時代の儒教(孔子を始祖とする思考)の思想家・孟子の教え。 他人の不幸を見過ごせない気持ちがあるという考え方。 | 3話で公任が暗唱していた。 |
屏風歌 | 色紙形(正方形に近い四角形)に書いた和歌を、屏風に貼り付けたもの。 | 27話の、彰子の入内道具。 |
普請 | 土木・建築工事のこと。 | |
豊前 | 現在の福岡県東部、大分県北西部。 | |
不動明王のご真言 | 不動明王は、仏教の信仰対象。 真言は、仏の言葉・真理を表す秘密の言葉。 不動明王の真言は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」。 | 5話で僧が、まひろのためにやれと言っていた。 |
ふんまん | イライラすること。 | |
別当 | 検非違使庁や蔵人所などの責任者。 | |
偏つぎ | 女性や子どもが漢字の知識を競い合った遊び。
といった説がある。 現代でも似たようなゲームがある。 | 3話でまひろや倫子が遊んでいた。 |
法会 | 仏法を説くためや供養を行うための僧侶の集まり。 | 34話で、興福寺の僧の1人が法会への参列を禁止させられていた。 |
伯耆の国 | 現在の鳥取県中部・西部。 | 19話で、租税を1/4免除されていた国。 |
奉幣使 | お祭りでの神への捧げ物のため、天皇の使いとして神社などに派遣される使者のこと。 | 27話で、宣孝は宇佐八幡宮の奉幣使となった。 |
放免 | 検非違使の下僕。 元罪人で放免になった者で、犯罪者を探索し、拷問や獄守を担当した。 | 2話で道長を捕らえていた人々。 |
法琳寺 | かつて京都府伏見区にあった、最古の寺院の一つ。 | 伊周は、この寺で禁じられた呪術を行ったとされた。 |
墨子 | 諸子百家(中国の春秋戦国時代にの学者・学派)の一つ・墨家を開いた人。 平和主義・博愛主義を説いた。 | |
堀川 | 京都市の主要な南北の通りの一つであり、沿道には紫式部の墓や晴明神社がある。 | 17話で、隆家が伊周に堀川の女の所に行くのかと聞いていた。 |
ま〜わ行
用語 | 意味 | シーン |
枕ことば | 和歌などに用いられる、豊かな表現にするための表現技法の一つ。 特定の語の前に置き、言葉の調子を整える。 | 定子が清少納言に紙をあげたきっかけに出てきた。 |
松原客館 | 渤海(現在の中国や朝鮮半島北部ら辺に存在していた国)を迎えるための迎賓・宿泊施設。 現在の福井県敦賀市・気比の松原辺りにあったのではないかとされている。 | 宋人(中国人)たちが滞在している場所。 |
松虫 | 現代で言うと「鈴虫」のこと。 平安時代は「松虫」と「鈴虫」の呼び方が逆だった。 どちらも童謡「虫のこえ」の歌詞にも出てくる。 | 一条天皇が好きなもの。 |
御髪を下ろす | 皇族や貴族など、位が高い人が出家すること。 | |
御位 | 天皇の位のこと。 | |
詔 | 天皇の命令を書いた文書のこと。 | |
水ごり | 神仏に祈願する際、冷水を浴びて体の穢れを洗い落とし、心身を清めること。 | 5話で僧が、まひろのためにやれと言っていた。 |
御嶽詣 | 現在の奈良県吉野郡にある金峰山寺に参拝に行くこと。 修験道(日本独自の宗教の形態で、山に籠もって厳しい修行をし、悟りを開く)の聖地。 ご利益があると人気だった。 | 13話で、宣孝が派手派手な格好で参拝した。 『枕草子』にも書かれているが、服はちょっと違う模様。 |
源高明 | 醍醐天皇(円融天皇の祖父)の第十皇子。 | 道長の妻の1人・源明子の父。 |
身まかられる | 亡くなること。 | |
御息所 | 皇太子の妃である皇太子妃(東宮妃)のこと。 | 居貞親王(後の三条天皇)の妃・娍子の23話時点の呼び名。 |
御代 | 天皇の在位期間。 | |
明法家 | 法律の専門家。 | 24話で、伊周・隆家を都に召喚するかは明法家に聞くべしという意見が出た。 |
明法博士 | 大学で律令法(法学)などを教えている教官。 陣定などの重要な会議に法律的な見解を記した文書を提出することも、職務の一つだった。 | 22話で、道長が通訳殺人事件について明法博士に調べさせると言っていた。 |
むつ言 | 男女の寝室での会話。 | |
乳母子 | 母親に代わり、高貴な子どもを養育する女性=乳母。 「乳母子」は乳母の実の子ども。 | 藤原惟成は花山天皇の乳母子。 |
女童 | 下働きをする少女のこと。 | 32話で、道長が賢子を内裏で女童にしてもいいと言っていた。 |
蒙求 | 伝統的な中国の初学者向け教科書。 「王戎簡要 裴楷清通〜」から始まる。 | 1話でまひろが三郎に言っていた漢文。 28話で、まひろが賢子の子守唄にしていた漢文。 28話で、明子が子どもたちに暗唱させていた漢文。 |
申文 | 下位の者が朝廷に希望を書いて差し出す手紙のこと。 | 19話で、為時が官職をもらうために書いていた。 |
孟嘗君 | 中国の戦国時代に活躍した4人の人物・戦国四君の1人。 | 2話で為時が太郎に出した問題の答え。 |
裳着 | 女性が成人になったことを示す儀式。 現代でいうと成人式的な。 | |
物忌み | 一定期間、日常的な行為(人に会うetc.)を控え、穢れを避けること。 | |
物詣 | 神社にお参りすること。 | 23話で、宣孝が越前に来る際、朝廷についた嘘の口実。 |
盛明親王 | 醍醐天皇の第十五皇子で、明子の父・源高明の弟。 高明の失脚後、明子の養父となった。 | |
文章生 | 大学寮で紀伝道(歴史・中国史)を専攻した学生のこと。 擬文章生のうち、さらに式部省(大学寮を統括する省)が作った試験に合格すればなれる。 | 21話で惟規が合格した。 |
文章博士 | 大学寮で漢文や歴史などを教えている教官。 | 20話で、国盛は文章博士に申文を書いてもらった。 |
八咫の鏡 | 三種の神器の一つで、帝であることを象徴する宝物。 | 32話の火事で焼失した。 |
山城守 | 現在の京都府南部の国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。 | 25話時点の、宣孝の官職。 |
大和 | 現在の奈良県。 | |
湯あみ | 身体や髪を洗うこと。 | 帝が来るから湯あみまでされたんですって〜 |
吉野瀬川 | 福井県越前市にある川。 越前市を代表する桜の名所。 | 22話で、民が為時に吉野瀬川の橋が壊れたと言っていた。 |
夜御殿 | 天皇の寝室。 | |
螺鈿細工の厨子棚 ※画像は螺鈿細工のイメージ | 螺鈿細工→貝を使った装飾技法で、数ある工芸品の中でも特に美しいとされている。 厨子棚→書籍などを入れる置き棚。 | 定子が欲しがっていたが、道長に却下されていた。 |
立身 | 出世のこと。 | |
綾綺殿 | 内裏(天皇が住んでいる場所)の館の一つ。 たまに宮中内での宴会が行われる場所である。 | 32話で、出火した場所。 |
霊験 | ご利益のこと。 | |
禄 | 給与。 | |
六位 | 大雑把に分けて、6番目の位階(6番目に身分が高い)。 地下と呼ばれる。 | 4話時点での為時の位階。 |
六条 | 京都の地名。 | 5話で、まひろが道長を待っていた場所。 |
論語 | 中国の思想家・孔子の教えを記録した書物。 | 1話で為時が花山天皇に読んでいた書物。 |
若狭 | 現在の福井県南部。 | 19話で、宋人(中国人)が来航した場所。 |
童舞 | 元服(成人)以前の子どもが舞う舞のこと。 | 29話の詮子の四十の賀で、道長の息子たちが舞っていた。 |
出来事解説
『光る君へ』で筆者が「何だその事件・出来事?詳しく知りたい!」と思った出来事をまとめました!
安倍晴明の屋敷に落雷(1話)
1話で安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の屋敷が落雷の被害に遭い、火事になっていましたよね(><)
兼家(段田安則)が「吉凶を占うやつなのに、自分のことは占えないのか?」的なことを言っていて「確かに」と思ったので、「本当に起こったのかな?」と思い、調べてみました!
実際987年、安倍晴明の屋敷に落雷し、家の一部が破損したという事件が起こったそうです!
『光る君へ』では978年の秋の初め、藤原詮子(吉田羊)が入内した日の夜に、安倍晴明の屋敷に落雷したという設定になっています。
安倍晴明の屋敷に落雷したのは事実ですが、起こった年が違いますね。
安倍晴明→「予言した凶事は落雷ではなく、これから」
兼家→「『慶事の折の雨風は吉兆』と広めよ」と対処
していました。
もっとヤバいことが起こる&兼家の頭が切れることを表すために、史実と年をズラしたのではないでしょうか?
散楽が盗賊で、倫子の家を荒らしたのは本当?(4話)
4話で直秀ら散楽が、倫子(黒木華)の家・土御門殿に押し入り、盗賊として物を盗んでいました。
当時の散楽が盗賊家業をしていたり、土御門殿に盗賊が入られたりしたのは本当かな?と思ったので、調べてみました!
結果、散楽が盗賊をしていたり、土御門殿に盗賊が入られたりしたという記録は見つかりませんでしたが、参考にしたと思われる事件はあります!
散楽は庶民性の強さや下品さから、奈良時代末期には一時廃止されたそうですが、別に盗賊などをしていたという情報はありませんでした。
しかし『光る君へ』の散楽の一座の座頭(一座の長)・輔保は、藤原保輔をモデルにしているのではないかと考えれます!
輔保のキャストは、この記事で紹介してるよ♪
【藤原保輔とは?】
平安時代中期の貴族であったが、盗賊としても有名で、袴垂保輔という伝説の人物でもある。
土御門殿で開かれた大規模な宴会で、傷害事件を起こす
兄を逮捕した役人を射る
強盗を行う
藤原景斉という人物の屋敷でといった罪を重ね、逮捕した者には恩賞を与えると発表された。
父親も監禁され、危機感を持った保輔は出家するが、友人に密告されて逮捕される。
逮捕の際、保輔はお腹を刀で傷つけて自害を図り、その傷が原因で獄中で死亡した。
これは記録に残る日本最古の切腹の事例とされている。
『光る君へ』では、
- 土御門殿で傷害事件
- 藤原景斉という人物の屋敷で強盗
といった出来事を掛け合わせ、「輔保率いる散楽が土御門殿で強盗」という事件にしたのではないかと思われます。
史実によると保輔は切腹で亡くなったということですが、『光る君へ』の直秀を含め、散楽メンバーはどうなってしまうのでしょうか(><)
一条天皇即位時、高御座に生首事件(11話)
11話の一条天皇の即位式の日、天皇の玉座・高御座に生首が置かれるという事件が起き、道長が他言しないように対処していました(><)
何ともバイオレンスな出来事だったので、史実通りなのか気になり、調べてみました!
一条天皇の即位式の日に高御座に生首が置かれたのは史実どおりですが、対処したのは道長ではなく兼家(パパの方)だったようです!
『光る君へ』で描かれていた通り、一条天皇の即位式の日に高御座に生首が置かれ、「穢れてしまった〜(><)」と騒ぎに。
生首事件を報告された兼家(段田安則)は、寝ぼけたふりをして話を聞かず、謂わば「生首事件などなかったこと」にしたのです!
そうして即位式は何事もなかったかのように、無事執り行われたんだとか・・・
史実では、事件の犯人・生首にされた被害者については特に言及されていないようです。
『光る君へ』では花山院(本郷奏多)が念仏?呪い?を唱えていたところに生首カットが入ったので、
- 花山院の呪い
- 花山院側の人間がやった
- 兼家の政敵
- 安倍晴明の呪い(花山院の切れた数珠が散らばった形&兼家・道長が見つめていたのが北斗七星)
といった設定にした可能性が考えられますね。
史実では兼家が「なかったこと」にしていましたが、『光る君へ』では道長が口止めして「なかったこと」にしていました。
誰かに報告されるより、自分で生首を見た方が衝撃的
道長は直秀のことで既に「穢れ」に慣れているため、生首を見ても取り乱さなかった
ということで、対処したのを兼家→道長に変えたのかもしれませんね。
兼家が左大臣に送った文(12話)
12話で兼家が左大臣・源雅信に、道長と倫子の縁談をお願いした後、道長に文を持たせて左大臣に届けさせていました。
左大臣は文を見て「舐めてる!!」と怒っていましたが、なんと書いてあったのでしょうか?
兼家が左大臣に送った文には、
「此者道長也 摂政」
と書かれていました。
意味は「この者が道長である 摂政より」です。
めちゃくちゃ短いですよね(笑)
超訳すると「こいつが、この前話した道長だよ!よろしくね♪ 摂政(兼家)より」という感じでしょうか(笑)
「こいつが道長です。どうか倫子さまの婿によろしくお願いします」とか書かれているのであればいいと思うのですが・・・(^_^;)
兼家の「拒むなんてことありませんよね?拒んだら分かってますよね?」という無言の圧力がこの短文に込められていて、めっちゃ怖いです(笑)
既に兼家は「自分が左大臣より上だ」と思っており、それを文にも表していたため、左大臣は「舐めている!!」と怒っていたのでしょう(^_^;)
道長がまひろに送った恋文の意味(12話)
12話のラスト、道長がまひろに文を贈り、いつもの場所で待ち合わせするというシーンがありました。
文はほとんど現代とは違う平仮名で書かれていましたし、読み上げるナレーションもなかったので、どんな意味だったのか調べてみました!
筆者は「一目なりとも」だけ読み取れたので、「一目だけでも会いたい」的な意味かな〜と思ったのですが、Xでは以下のように解読されている方がいらっしゃいました!
#光る君へ 第12回 道長からまひろへの手紙の解読案
今宵はただ
一目なりとも
まみえまつらむ
道長 pic.twitter.com/LXB8XbjcGd— finalvent (@finalvent) March 24, 2024
「まみえる」は「会う」という意味ですので、「今夜、一目だけでも会いたい 道長」という意味になると思います。
以前は『古今和歌集』を引用した文を送っていましたが、最近ド直球が多くなりましたね〜
10話での和歌と漢詩の長いやり取りの結果、道長が送った「我亦欲相見君」(あなたに会いたい)という短い文で会うことができていました。
そのため道長は、「直球勝負のほうが、まひろには響くらしい」と学んだのかもしれません(笑)
尾張の国司変更(13話)
13話で、公卿たちが民からの上訴について会議中。
道隆(井浦新)が「この前も尾張の国司を変更したばかり。民の言うことをばかり聞いていたらつけあがる」的なことを言っていましたよね。
史実か気になって調べたところ、実際に民の上訴により、尾張の国司が変更になった事件があったのです!
【尾張とは?】
現在の愛知県西部。
【国司とは?】
地方の国を治める役人のこと。
尾張の国守(国司の中で1番上の階級)であった藤原元命は、地方官(=元命にとっては部下)や有力農民から、
税を追加徴収する
いろいろな理由で安い値段で絹を買い、余った分は他国で高い金で売る
百姓から横領しているが、文書には適正だと書く
給料や費用、食料を元命の子の乱暴な振る舞い
出勤怠慢
元命の都の命令でも自分に都合の悪い文書は民に知らせない
といった件を上訴され、989年の除目(官職を任命する儀式)で解任となりました。
なお尾張の民たちが書いた訴状は、「尾張国解文」と呼ばれており、当時の地方政治などの実態を伝える文書として評価されているそうです。
あんな一言のセリフでも、ちゃんと史実通りのことを言っていたんですね〜
税の追加徴収はともかく、安く買って高く売る、横領、出勤怠慢などは、現代にも通じる部分があると思います(^_^;)
なお元命は国司を解任された後も、役人は続けていたようです(^_^;)
13話で道長が「民の声も大事」と言っていましたが、今後どのような政治をしていくのかも気になりますね(><)
詮子が内裏から追い出される(15話)
15話の冒頭、990年に詮子が内裏(天皇が住む場所)から追い出され、職御曹司(皇后・皇太后・太皇太后に関する事務所がある場所)という建物に住まわされていました。
「詮子が息子の嫁である定子(高畑充希)にチクチク言っていたから追い出したのかしら?」と思って調べたところ・・・
追い出されたのかは分かりませんが、詮子が職御曹司に住んだことがあるのは本当のようです!
詮子が住まわされた職御曹司は、母屋に鬼がいたという不気味な建物だそうです(><)
詮子は兼家が亡くなった年である990年10月〜職御曹司に住み、991年に職御曹司で出家し、日本最初の女院となりました。
【女院とは?】
太上天皇(譲位して天皇を後継者に譲った天皇のこと。上皇や法皇、院とも呼ばれる)に準ずる待遇を受けた女性のこと。
元々、皇后や皇太后、太皇太后は出家したら后妃の待遇は停止すると決まっていた。
しかし、当時皇太后だった詮子が出家すると、一条天皇の命令で「女院」となった。
女院になった詮子は実家である東三条殿にちなみ、「東三条院」と呼ばれるようになりましたが、出家後は実家ではなく道長&倫子の邸宅・土御門殿に住んでいたんだとか(^_^;)
詮子は実家嫌いだもんな〜(笑)
弟夫婦の家に住むってありなんだね〜
詮子は職御曹司に住んだことがあるものの、その期間は少しだったということですね。
母屋に鬼がいるという職御曹司は、定子も一時期住んでいたことがあるのですが、そのエピソードについては、こちらの記事で詳しく解説しています!
道隆が66人の位を上げたのは本当?(15話)
15話の993年の除目(官職を任命する儀式)で、道隆(井浦新)が自分と親しい人66人の官位を上げたというナレーションが入りました。
本当に66人も官位を上げたかは調べきれませんでしたが、道隆が自分と親しい人の官位を上げたのは本当でした!
道隆が摂政となった990年〜『光る君へ』15話の993年までに、道隆と親しい人のうち官位を上げた、公卿(貴族の中でも、国政を担う最高の職位)以上の人を調べてみました!
※蔵人頭は、参議のすぐ下
名前 | 道隆との関係 | どれくらい昇進? |
道兼 (玉置玲央) | 弟 | 権大納言→内大臣 |
藤原済時 | 酒を通じて道隆と親しくなった | 権大納言→大納言 |
道長 (柄本佑) | 弟 | 権中納言→権大納言 |
伊周 (三浦翔平) | 息子 | 権中納言→権大納言 |
藤原公季 (米村拓彰) | 兼家の異母弟 | 権中納言→中納言 |
藤原道頼 | 息子(母は妾) | 参議→権中納言 |
道綱 (上地雄輔) | 異母弟 | 右近衛中将→参議 |
平惟仲 (佐古井隆之) | 兼家に対し、後継者は道隆と推薦 | 蔵人頭→参議 |
身内はもちろん、仲のいい人や自分の恩人的な人の官位も上げていますね〜
兼家も摂政になった際、道隆や道兼の官位を上げていましたので、同じことをしているだけではあるのですが、道隆の方が批判されている印象です(><)
後涼殿・弘徽殿の火事(16話)
16話で、定子(高畑充希)&一条天皇(塩野瑛久)がいた弘徽殿で火事が起こり、2人が避難するシーンがありました。
その後、「この前、後涼殿でも火事があったが、放火か?誰だ?」みたいなことを道隆(井浦新)たちが話していましたよね。
調べたところ、994年に後涼殿、弘徽殿で火事(放火)があったのは本当のようです!
正確には994年2月に、
- 後涼殿
- 弘徽殿
- 飛香舎
で放火があったということです。
【飛香舎とは?】
天皇の后の住まい・後宮の一つで、別名「藤壺」。
元々格が低かったが、平安中期以降は中宮や有力な女御が住んでいた。
道長の娘で、後に一条天皇の妻となる彰子(見上愛)が住む場所でもある。
これらは放火だったようですが、放火の犯人については情報がありませんでした。
なお平安時代は何度も火事が起きており、
- 999年
- 1001年
- 1005年
にも内裏(天皇が住んでいる場所)で火事が起き、一条天皇は兼家の邸宅であった東三条殿に身を寄せていた時期もあるそうです。
=『光る君へ』では今後も一条天皇は火事に見舞われるということで、気の毒ですね。。。
何の疫病?(16話)
16話で都で疫病が流行り、まひろまで感染してしまう事態に・・・
道隆(井浦新)は「疫病は下々の者がなる病」と言い、対策をしていませんでしたが、
- 一口に「疫病」と言っても、具体的にどんな病気なのか?
- 道隆が対策しなかったのは本当か?
- 罹患したのは誰か?
を調べてみました!
【具体的にどんな疫病?】
疱瘡(天然痘)
【疱瘡とは?】
感染症の一つ。
飛沫や接触で感染し、
- 40度前後の高熱、頭痛・腰痛
- 全身に発疹が広がる
という症状がある。
感染力が強い上、致死率が平均で約20%〜50%と非常に高い。
仮に治っても、皮膚に「あばた(ぶつぶつとした小さなくぼみ)」が残ってしまう。
1980年に根絶が宣言され、人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症である。
【道隆が対策しなかったのは本当?】
情報なし
しかし当時は感染症の対策についての知識もないため、祈祷くらいしかやることがなかった。
【994年前後に罹患した人まとめ】
名前 | 罹患後は? |
一条天皇 (塩野瑛久) | 993年に罹患したが治癒 |
道隆 (井浦新) | 995年・死亡。 (死因は糖尿病だが、疫病に感染して死期が早まったと言われている) |
道兼 (玉置玲央) | 995年・死亡 |
源重信 (倫子の父・雅信の弟) | 995年・死亡 |
済時 (道隆と親しかった大納言) | 995年・死亡 |
道頼 (道隆と妾の子) | 995年・死亡 |
源保光 (中納言であり、F4の1人・行成の養父) | 995年・死亡 |
朝光 (17話で道綱が話していた人) | 995年・死亡 |
など、殿上人である五位(上から14番目に偉い)以上の貴族・67人が死亡。
道隆は「疫病は下々の者がかかる」なんて言っていましたが、一条天皇だって『光る君へ』16話の前年・993年に罹患していたんです(><)
994年に流行ったのは天然痘ですが、特に発疹が出ている人はいなかったように見受けられます。
天然痘にかかると、治ってもぶつぶつが残ってしまうということなので、「まひろの顔にぶつぶつを残すわけにはいかない」と発疹の描写を省いたのかもしれませんね。
なお疫病は994年・995年だけではなく、
998年に赤斑瘡(現代の麻疹、はしか)が流行し、一条天皇や行成が罹患(2人とも治癒)
1000年・1001年に疫病流行
と、まひろ(紫式部)が宣孝と結婚する998年や、宣孝が死亡する1001年にも流行しています。
なお、宣孝の死因も疫病です。
火事同様、疫病は今後も『光る君へ』で登場人物たちを苦しめることになりそうですね。。。
内覧について、20年前の先例(17話)
17話で、道隆(井浦新)が倒れた際、定子(高畑充希)は昔の例を調べ、兄・伊周(三浦翔平)に、
「兄上が内覧になれるよう、帝にお願いしましょう。20年ぶりでもやってしまえばよいのです」
と言っていました。
定子が言っていた「20年前の先例」とは、藤原兼通のことです!
972年 円融天皇(坂東巳之助)の摂政をしていた藤原伊尹が病に倒れる
↓
兼通(次男)&三男・兼家「長男・伊尹の後任は俺だ!!」
円融天皇「頼忠(公任パパ、後の関白)を内覧にしたいな〜」
↓
円融天皇の母(兼通の妹でもある)の遺言「摂政や関白は、必ず兄弟の順番に従ってね♪」
↓
円融天皇「母上の遺言だからな〜」
↓
兼通が関白になることが決まるが、兼通はまだ権中納言(><)
↓
一旦、内覧になる
↓
兄・伊尹の死後、内大臣になり、その後、関白に就任
兼通は、伊周にとっては大伯父にあたります。
伊周の父は道隆、道隆の父は兼家(=伊周にとってはおじいちゃん)
兼通は兼家の兄だから、伊周にとっては「おじいちゃんの兄=大伯父」だね
『光る君へ』17話時点で995年でしたので、定子は23年前の先例を持ち出してきたということですね。
兼通も、
現在の関白が病に
↓
兼通が内覧になる
↓
現在の関白が死去
↓
兼通が関白になる
という流れでしたので、関白・道隆が病になった今、内覧になっておけば、道隆の死後に関白の座につけると思ったのでしょう。
しかし道隆の死後は道兼(玉置玲央)が関白となり、その後は詮子の猛プッシュで道長が内覧になっちゃうんですよね〜(^_^;)
租税の免除(19話)
19話で一条天皇(塩野瑛久)が、
- 伯耆の国(現在の鳥取県中部・西部)
- 石見の国(現在の島根県西部)
の租税を1/4免除する命を出し、道長が賛成していましたが、史実だったのでしょうか?
調べたところ、疫病で租税を免除したのは本当ですが、免除した地方&割合については明らかになっていませんでした!
一条天皇は995年に疫病で苦しむ民のため、租税を免除しています。
また実際、諸国(どこの国かは不明)から租税を1/4免除してほしいという要求があったそうですが、これに応えたかどうかは分かっていません。
『光る君へ』では、1/4免除に応じたことになっていましたね!
一条天皇は995年より前、993年にも、疫病の大流行により租税を免除しています。
一条天皇は『光る君へ』の役柄通り、民のことを思っていた天皇だったのかもしれませんね(*^^*)
行成が道長にチクった内容(19話)
19話で道長が行成(渡辺大知)に貴族たちの裏の顔を探るよう命じ、行成は女性から聞き出した情報を道長にチクっていました。
「藤原朝経は酒乱なのか〜」と言っていましたが、それ以上の情報や、朝経をどうするかなどは言っていなかったため、
- 行成が道長にチクった内容
- その内容は史実通りか?
を調べてみました!
名前 | 内容 | 史実通り? |
藤原朝経 | 酒乱。 去年の春に父親が亡くなってからは特にヒドい。 | 酒乱だったかは不明。 しかし995年から3年ほど官位が上がらず干されている。 |
源頼定 (実資の妻の弟) | 斎宮と男女の仲という疑いあり。 ※斎宮とは、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇族の娘。 聖なる存在であり、恋愛はご法度 | 斎宮とデキていたかは不明。 しかし女性関係がヤバかったらしく、
といった問題を起こしたため、三条天皇時代は昇進が止まっている。 ※『光る君へ』19話時点で一条天皇の妻は定子だけ。 源頼定が手を出したのは定子ではないし、時期は一条天皇の死後 |
藤原通任 | サボり癖あり。 | 当時怠慢だったかは不明。 しかし、1014年に三条天皇の第一皇女を伊勢に送り届けた時のこと。 その態度が非常に怠慢であったと批判されている。 |
藤原公信 (斉信の異母弟) | 度々ケンカしてる。 | ケンカしていたかは不明であり、普通に順調に昇進していた。 |
チクった内容が史実通りかは不明でしたが、名前が出ていたうちのほとんどが昇進させてもらえずに干されていましたね(^_^;)
特に源頼定、藤原通任は、チクられた内容通りのことをやっていてもおかしくないようなエピソードもあります(^_^;)
藤原公信についてはケンカしていたという情報もなく、順調に昇進していたようです。
公信はF4の1人・斉信(はんにゃ金田)の異母弟&養子であるため、『光る君へ』では道長も目をつぶったという設定にしているのかもしれませんね〜
倫子が読んでいた道長の日記(19話)
19話で道長は行成(渡辺大知)からの勧めで日記を書き始めたのですが、その日記を妻・倫子(黒木華)が盗み見し、「ふ〜ん」と微笑んでいました(><)
倫子は以前、まひろが道長に送った文を盗み見し、関係を疑っていたことがありましたが、道長の日記には何が書いてあったのでしょうか?
調べたところ、995年8月16日の『御堂御記抄』には、
「御馬を引き別け、□□直廬に将ゐ来たる。使の近衛に疋絹を給ひ了んぬ」
と書かれていたようです。
【御堂御記抄とは?】
道長の日記『御堂関白記』を後世に抜き出したもの。
意味は、
「美しく立派な馬を、休憩部屋に持ってきた。使いの近衛兵に絹を与えた」
になりますね。
『光る君へ』公式サイトの方でも同じような内容ですが、「御牧」という言葉が追加されています。
それを含めて超訳すると、
「朝廷の牧場の綺麗な馬もらっちゃった〜♪
だから使いの者に絹あげたよ(*^^*)」
という感じでしょうか。
超どうでもいいというか、まさに「日記」って感じですね(笑)
倫子は不倫の証拠を見つけて微笑んでいたわけではなく、ただ単に「あら〜日記書き始めたのね〜」くらいの感じで微笑んでいたのかもしれません♪
宋の商人の目的とその後
まひろパパ為時(岸谷五朗)が越前守(今の福井県北部を治める役人の中で1番上の階級)になった際。
道長から、
越前には宋人(中国人)70人余りが来ている
宋人は「商人」だと自称しているが、官人か戦人かもしれない
宋と貿易するのは博多だけだから、速やかに宋に帰らせよ
と言われていました。
越前に来た宋人は本当に戦人で、その後、宋に帰ったのでしょうか?
実際に日本に来た宋人・朱仁聡(浩歌)は普通に商人であり、来日したのも初めてではなかったようですが・・・
997年(為時が越前に行った次の年) 高麗(朝鮮の王朝)から、日本を侮辱する文書が届く
↓
文書が高麗っぽくなかったため、「宋(中国)の策略か?」と怪しまれる
↓
宋人が都に近い越前にいるため、「早く宋に帰すべきか?」という意見も出る
↓
1000年 朱仁聡は大宰府(九州)に移る
↓
1002年 朱仁聡は宋に帰国したと考えられている
という流れであり、越前に来た宋人は普通に商人だったとされているが、朝廷から怪しまれており、後に宋に帰ったということですね。
日宋貿易は日本&宋&高麗の三国間で行われ、道長が言っていたように博多が拠点だったそうですが、正式な外交貿易は行われず、私貿易が盛んに行われていたとのこと。
朱仁聡は「宋と日本の正式な商いを取り決めるように命じられて来た。果たさなければ国に戻れない」と言っていましたね。
越前も正式な貿易ではなく私貿易の拠点の一つだったということで、朱仁聡の任務はほぼ失敗に終わるということになるでしょう。
国司(地方の国を治める役人)の任期は4年なので、為時が越前守の任期を終える頃に朱仁聡は、もう一つの大きい私貿易の拠点・大宰府に移ったということになります。
なお22話で、通事(通訳)が「宋人は戦をしない」と言っていました。
「宋」は1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けていますが、『光る君へ』の時代である北総時代では、
遼(内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した王朝)が攻めてきた時、毎年大量の絹と銀を贈ることで和睦
西夏(現在の中国西北部の王朝)が反旗を翻した時、財貨を贈ることで和睦
しているため、実際に戦を好まない国家だったようです。
朱仁聡は実在の人物ですが、一緒に来た周明(松下洸平)は架空の人物なので、モデルについてはこちらの記事で予想しています!
宋の楽器(22話)
見たことない楽器だけど良い音色~ #光る君へ pic.twitter.com/WO5EnTVGps
— ワトソン士 (@watoson43) June 2, 2024
22話の為時パパ(岸谷五朗)歓迎の宴でのこと。
宋人(中国人)がおもてなしとして、
- 緑色の金属を叩いて、綺麗な音が出る打楽器
- 細い竹?いっぱいの楽器で、吹くやつ
を演奏していましたよね!
琵琶や笛などと違い、全く見慣れないもので気になったため、調べてみました!
まず緑色の金属を叩いて、綺麗な音が出る打楽器について。
全く同じものは見つかりませんでしたが、
- 複数の鐘を枠に吊るした古代中国の打楽器
- 宋の時代にも、祭礼楽に不可欠の楽器として使われていた
- 複数の長方形の鉄板を並べてぶらさげ、バチで叩く中国の伝統的な楽器
- 宋の時代でも宴の音楽として使われ、日本にも伝えられた
- 枠に並べた小さな銅鑼を鳴らして演奏する中国の伝統的な楽器
- 宋に雲鑼があったかどうかは議論がある
ではないかと言われています!
見た目的に、『光る君へ』で使われていたのは雲鑼の四角&小さいver.のような感じでしたね〜
これらの前身の楽器という設定で作られたのかもしれません!
続いて、細い竹?いっぱいの楽器で、吹くやつは、竽ではないかと言われています!
中国古代に使われた管楽器の一つで宋の時代まで使われ、奈良時代に日本にも伝来したそうですが、平安時代に滅んだそうです。
楽器一つでも「異国感」があり、大河ドラマの美術さんの技術の高さとこだわりを感じますよね!
朱仁聡の殺人事件の容疑者疑惑(22話)
22話で宋の商人のトップ・朱仁聡(洪歌)が通事(通訳)を殺害したという容疑をかけられていましたが、史実通りなのでしょうか?
『日本紀略』などの資料によると、
996年7月 宋人が朝廷にガチョウやオウム、羊を献上
10月6日 朝廷で朱仁聡の罪を審議(何のトラブルかは不明)
11月8日 明法博士(重要な会議で、法律的な見解を記した文書を提出する人)に、朱仁聡の罪名を調査することを命令
997年 ガチョウやオウム、羊を朱仁聡に返却
ということで、殺人事件まで起こったのかは定かではありませんが、何らかのトラブルがあったのは事実のようです(><)
殺人事件だったとしても容疑者止まりって感じだったのかな
しかし朱仁聡はこの事件だけでなく、この後も暴行事件や未払い訴え騒動などを起こしていますので、越前編も波乱万丈になりそうですね(^_^;)
998年の災害(25話)
25話で998年になった際、安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)が、
- 地震
- 疫病
- 火事
- 日食(不吉の前兆だと言われていた)
- 嵐
- 大水
の全てが起こると言い、実際に大水で鴨川の堤(土手)が崩れていました。
史実では、998年にどれほどの災害が起こっていたのでしょうか?
調べたところ998年には、
3月に京都で大火事
4月に火事
6〜7月に疱瘡(天然痘)が流行し、死者多数
7月に赤斑瘡(現代の麻疹、はしか)が流行し、死者多数。一条天皇や行成も罹患(2人は治癒)
7月10日に鴨川の洪水で、多くの民が死亡
8月に大風
9月1日に大雨で鴨川の堤が決壊し、大洪水に
10月1日に日食&地震
冬に火事多数
と、安倍晴明が予言した凶事の全てが起こっていたのです(><)
998年7月に一条天皇が麻疹に感染し、一条天皇の身の回りの世話人も感染していたということですが、『光る君へ』ではカットされていました。
麻疹に感染していたら、「政務がおざなり」ではなく「そもそも政務ができる状態じゃない」
麻疹に感染していたら、定子との描写もなくなる
といったことから、カットしたのかもしれませんね。
なお9月1日の大雨で決壊した鴨川の堤(土手)について、史実では、
修理を行っていない
宣旨(天皇の意向を伝えること)の後も防鴨河使(京都の洪水を防ぐために、鴨川の堤防の修築を行う官職)の怠慢
ということです。
「一条天皇が早く命令を出さなかったから間に合わなかった」のではなく、「命令は出したが、役人がサボって、そもそも修理を行わなかった」というのが事実のようですね。
道長が辞表提出(25話)
25話で、道長が3度辞表を提出し、一条天皇は受け取らなかったというエピソードがありました。
『光る君へ』では、政務がおざなりになっている一条天皇に腹を立て、抗議を唱えるための行動に見えましたが、史実ではどうだったのでしょうか?
道長が3度辞表を出したことは本当ですが、理由は重い腰病を患っていたからです!
道長は、
- 998年3月3日
- 3月5日
- 3月12日
に辞表を提出し、「出家したい」とまで言っていたようですが、一条天皇は許しませんでした。
史実では、その後、
道長はやや回復したが、数ヶ月は病気がちで政務があまりできなかった
ほとんど政治の指導に当たらず、宇治の山荘を観光していた
998年の冬に回復するも、病後を理由に辞退し、右大臣に譲る
除目(官職を任命する儀式)で、決定した人事を記載する執筆の業務を度々、除目の出席の辞退を申し出る
などといったことが起こっており、政務がおざなりだったのは道長の方であることが分かります。
一条天皇は寧ろ積極的に政務をしようとしており、そんなやる気のある一条天皇に対し、道長が不満を抱いていたとも言われているのです(><)
『光る君へ』と真逆のことが起こっていたんですね〜
道長の危篤(28話)
28話で道長が倒れ、危篤状態となったところ、まひろの声で目を覚ますという展開がありました。
道長があの時期に危篤状態になったのは史実通りだったのでしょうか?
調べたところ、彰子が中宮となった1000年に道長が体調を崩していたのは史実通りで、
1000年4月下旬 急に病気で倒れる
4月27日 辞表を提出し、長男の田鶴(後の藤原頼通)の将来を行成(渡辺大知)に頼む
5月上旬 道長の屋敷から呪詛の道具が見つかる
5月19日 行成がお見舞いに行った時、道長の兄・道兼(玉置玲央)の霊が登場し、道長の口を借りて話し始めた
5月25日 再び道長が邪気に取り憑かれ「伊周の地位を元に戻せ。そうすれば病は治る」と言う
6月27日 道長復活!
と、なんと2ヶ月間も病に苦しみ、霊まで取り憑いてしまう始末だったようです(><)!!
『光る君へ』内でもまひろが登場する前、光の中に誰かがいたような演出がありましたが、あれは道兼の霊だったのかもしれませんね〜
道長は51歳で糖尿病を発症するのですが、このころから体調は崩しがちだったのかもしれませんね。
干ばつ(30話)
30話で干ばつが起こり、安倍晴明の祈祷でやっとこさ雨が降っていました。
1004年に実際に干ばつが起こったのでしょうか?
調べたところ、1004年7月に干ばつが起こったことは史実通りであり、他も大体ドラマの通りのことが起こったようです!
1004年7月1日 祈雨使(雨乞いを行う際に、寺院などに派遣される使いのこと)を派遣する
7月10日 雨が降らず、一条天皇が祈祷を行う
7月11日・12日 一条天皇の雨乞いの後に、小雨が降る
7月14日 安倍晴明が雨乞いの祭りを行い、大雨が降る
しかし、また日照りが続き、8月・9月にも雨乞いが行われる
11月には、京都の四条通りより北の井戸の水が干上がる
- 干ばつが起こったこと
- 井戸の水が干上がったこと
- 一条天皇が祈祷したこと
- 安倍晴明の祈祷で雨が降ったこと
は史実通りでしたが、実際は一条天皇の祈祷のあとに小雨が降り、安倍晴明の祈祷のあとも干ばつに悩まされていたということですね(><)
雨が降った後も和泉式部が「暑い暑い」と言っていたのは、このような史実が反映されていたからなのかもしれません。
カササギ語りは実在?(30話)
30話で、まひろは公任の妻主催の学びの会で、『カササギ語り』という自作のお話を読み聞かせていました。
- 大きい女性と小さい男性(→いとと乙丸?)
- 「本当は男性、本当は女性だった」的な現代風の作品
を語っていましたが、『カササギ語り』は実在しているのでしょうか?
調べたところ、『カササギ語り』が実在しているという情報はありませんでした(><)
『カササギ語り』は実在しませんが、調べたことをまとめてみました♪
七夕に織姫と彦星が会うため、織姫を乗せて天の川を越える鳥とされている↓
カササギは、
七夕伝説の鳥としてカササギの存在は奈良時代には日本にも伝わっていた
平安時代に実物のカササギが日本にいたかは定かではない
しかしカササギはサギの仲間だと思われていたため、現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に大名たちが日本に持ち帰ってきたものだという説がある
『とりかへばや物語』がモデルではないかと言われている
平安時代後期に成立した作者不詳の物語【『とりかへばや物語』あらすじ】
左大臣の2人の子供は、
- 内気で女の子っぽい性格の男の子
- 快活で男の子っぽい性格の女の子
↓
左大臣は「取り替えたい」と思い、
- 男の子→女の子
- 女の子→男の子
として育てる
↓
それぞれ出世したりと上手く行くが・・・
↓
結婚・恋愛で苦しみ、ついには正体が見破られてしまう!
↓
2人は元の性別に戻ることにし、それぞれ関白・中宮という偉い地位につくことができた
カササギは平安時代ではまだ「伝説の鳥」っぽい扱いだったので、まひろは「神さま目線」みたいな感じで選んだのかもしれませんね♪
Xでは、
カササギは織姫と彦星を繋ぐ鳥→『カササギ語り』でまひろと道長が繋がった
という考察をされている方も何人かいらっしゃり、素敵だな〜と思いました♡♡
モデルになったと言われる『とりかへばや物語』は、かなり現代的なお話に思えますが、原型は1180年以前に成立したと考えられているとのこと。
30話時点で1004年でしたので離れすぎている気もしますが、『とりかへばや物語』は作者も不詳ですし、本当に紫式部が原型を作っていたとしたらロマンがありますよね〜♪
1005年の火事(32話)
32話で、内裏の温明殿、綾綺殿で火事が起こり、一条天皇が彰子の手を引いて逃げるというシーンがありました。
またその際、三種の神器(帝の象徴)の一つである八咫の鏡が焼失したということでしたね。
調べたところ、1005年に内裏で火事が起こったのは史実通りであり、その他、
起こったのは1005年11月15日
火事の後、一条天皇と彰子は同じ場所に避難していた
神鏡(=八咫の鏡)が焼失したのも本当
同日、月食(月が欠けて見える現象)が起こったのも本当
という詳細が分かりました。
一条天皇と彰子は同じ場所に避難していたということで、ドラマのようにガッツリ一緒に避難していたかまでは分かりませんが、ほとんど史実通りに描いたということですね。
この火事の影響により、一条天皇は約3ヶ月間、東三条殿(兼家の元家)に移り住むことになりました。
東三条殿は道長が昔住んでいた家でもあるね
※道長が今住んでいるのは、倫子の家・土御門殿だよ
1005年の年末に紫式部は彰子に仕え始めたため、紫式部の初出仕の場所は内裏ではなく東三条殿だったということですね。
『光る君へ』で言えば、まひろが若い時、父・為時の官職のことで兼家(段田安則)に直談判に行った思い出?の場所ですね(笑)
『光る君へ』では特に東三条殿という描写はありませんでしたが、史実を踏まえれば「元カレ(道長)が育った場所だわ」と思っていてもおかしくないということです(笑)
平維衡の武力争い(33話)
33話で、右大臣や一条天皇が伊勢守(現在の三重県の北中部などを治める役人のTOP)に平維衡を推し、道長は大反対していました。
平維衡は武力を行使しようとするということでしたが、一体どういうことか調べてみました!
平安時代中期の武将・平維衡
998年 伊勢国の覇権をかけ、平維衡VS平致頼(維衡と又従兄弟)で合戦
↓
2人とも朝廷で尋問を受けるが、詫び状を提出して終わり
↓
1006年1月 右大臣・藤原顕光(宮川一朗太)が、伊勢守に維衡を推挙
そんな人に伊勢を任せたら乗っ取られます!反対です!!
↓
なにかの手違いで維衡の名前が入れられ、維衡は伊勢守に
↓
1006年3月 維衡は2ヶ月で伊勢守を解任され、違う地方の国司になった
↓
維衡の死後は、子どもたちが伊勢の覇権をかけて致頼側と争う
↓
維衡側の子孫が、伊勢の覇権を握る
↓
平安時代末期の武将・平清盛は、維衡の来孫
8年前に覇権争いで合戦するほど伊勢に執着している人に、伊勢を治めさせるわけにはいかないということで、道長は大反対していたんですね。
また1007年には伊周(三浦翔平)・隆家(竜星涼)兄弟が、維衡と争っていた致頼に道長の暗殺を命じたという噂も立ちました。
平安時代は戦のない平和な時代のイメージだったので、血の気が多い人もいたんですね〜
道長は戦の世が来ることを案じていましたが、維衡の子孫は平清盛なわけですから、道長の読みは当たっていたということになります。
興福寺の僧と道長の事件(33・34話)
33話で、興福寺のお坊さんが大勢でやってきて、道長に「屋敷を焼き払う」と言って脅していました。
お坊さんたちは、道長にどんな恨みがあるのでしょうか?
興福寺のお坊さん達は道長自身に恨みがあるというより、国司の解任を訴えに来たのです!
興福寺は藤原氏の氏寺(有力氏族の祭祀儀礼の場として造られた仏教寺院)であり、手厚く保護された
↓
大和国(現在の奈良県)の荘園(私有地)のほとんどを所有しており、興福寺は大和国の事実上の国主だった
↓
1006年 源頼親が大和国の国司(地方を治める役人のTOP)になる
↓
頼親は大和国で勢力を拡大しようとしたため、既に大和国の事実上の国主だった興福寺と対立!
↓
頼親に仕える当麻為頼が興福寺の1人を殴った(殺害?)
↓
報復として、興福寺の僧3,000人ほどが当麻為頼の屋敷を焼き払う
↓
興福寺の僧の蓮聖が数千人の僧を集め、大和国に被害を与えた
↓
朝廷は蓮聖の公の法会(仏法を説くためや供養を行うための僧侶の集まり)を禁じた
↓
↓
あちこちの寺から僧を集結させ、3,000人以上が威圧のために入京
という流れです。
ということで、道長にどうにかしてもらおうとやってきたということですね。
しかし道長は日記にも頼親の解任について「頼親の身に罪はない。極めておかしいことだ」と記しています。
この騒動が起こったのは1006年のことですが、1008年の実資(秋山)の日記『小右記』にも「大和守頼親」と書かれているため、結局、頼親は解任されなかったようですね。
しかし、その後、興福寺も頼親も問題を起こしており、
大和守になった藤原輔尹の従者を、興福寺の僧が殺害
1009年、頼親の次に清少納言の兄が殺害されるが、それは頼親の指示だった
1017年、頼親の3回目の大和守在任中、次男が興福寺と合戦を起こし、多数の死者が出る
1049年、と、前述の維衡と致頼に引き続き、平安時代にも血の気の多い人がいたことが分かります。
しかも頼親の弟は、鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝のひい×4おじいちゃん!
武士の遺伝子っていうのは受け継がれるものなんですかね〜
敦康親王の病気(34話)
34話で敦康親王が病気になり、戻してしまったりしていましたよね(><)
何の病気か描かれていませんでしたが、調べてみたところ、1007年3月28日に敦康親王は霍乱(日射病or激しい吐き気・下痢をしてしまう病気)に罹ってしまったそうです(><)
3月で暑くはないと思うので、日射病ではなく、激しい吐き気・下痢をしてしまう病気の方だと思われます。
4月19日の道長の日記で敦康親王は何かの見物に向かったと書かれているため長引かなかったようですが、敦康親王は、同年7月にも病気になった模様です(><)
敦康親王は病気で20歳という若さで亡くなっていますので、あまり体が強くなかったのかもしれませんね。。。
御嶽詣と伊周の道長暗殺計画(35話)
道長の御嶽詣と伊周の道長暗殺計画については、端折られていたり史実と若干違ったりしたため、時系列で解説していきます!
1007年閏五月17日〜 道長の家司(道長一家の事業や家事全体を担当する職員)・源高雅の家で、道長は精進潔斎を75日間続ける
【閏とは?】
昔は暦と季節の調整のため、約3年に1度「閏月」があり、1年が13ヶ月の年があった。
【精進潔斎とは?】
- お酒・魚を断つ
- 1日1食の精進料理
- 夜に五体投地(仏教でもっとも丁寧な礼拝の方法)で祈りを行う
などをして、けがれを避けること。
で予行練習
8月2日 京都を出発し、奈良にある金峯山に向かう
道長は奉納するために持参した金色の容器に「8月11日」と彫ってしまったため、
- 道長は馬などに乗らず、自分の足で歩く
- 奉納するための金銀・絹・紙・米などを持つ人もいる
という厳しい状況の中、8月11日には着かないといけない(><)
同日 石清水八幡宮に参拝
8月3日 奈良の大安寺に宿泊するが、「宿泊場所が豪華でふさわしくない」と思い、わざわざ門の脇で寝る
8月4・5日は雨
8月7日 現在の金峯山寺本堂がある辺りに到着
8月8〜10日も雨
8月9日 伊周と隆家が「道長を暗殺しようとしている」という噂が流れる
同日 金峯山寺のある吉野山に到着
8月11日 頂上に到着!
(現在では子供を授かりたい人が祈願に行く場所)に行く
小守三所(現在国宝になっている)
自分で書き写したお経を入れた筒を山頂に埋める(欲を開放する経典)を奉納
理趣分八巻連れてきたお坊さんに、数々のお経を読ませて奉納
を行い、同日に帰路につく
8月12日 帰りは馬に乗り、道長に仕える軍事貴族3人が迎えに来た
8月13日 京都の木津川に到着し、舟に乗る
8月14日 お家(土御門殿)に到着!
めちゃくちゃ準備してから御嶽詣に向かったこと
道長は大変だったこと
行きは雨も降る中、リミットもあって暗殺を企てていたのは伊周+隆家もであること
『光る君へ』と違い、帰りは結構早く帰ってきたこと
が分かりますね。
伊周&隆家の道長暗殺計画について、道長の耳に入っていたかは分かりません。
しかし軍事貴族が迎えに来て早く帰ってきたということは、道長or家来たちは意識していたのかもしれませんね。
彰子の出産(36話)
36話で彰子(見上愛)が出産していましたが、史実でもドラマ通り多くの貴族たちや僧がお祈りしたほか、
9月9日の夜に陣痛が起き、生まれたのは9月11日のお昼ごろで難産だった
形だけ出家の儀式をした
万一に備え、彰子は頭頂部の髪を少し切り、と、壮絶な出産だったようです(><)
またドラマ内であったように、寄坐(出てきた怨霊を乗り移らせる人)もいました。
怨霊が乗り移った寄坐に道長が「お鎮まりください!」的なことを言って、やっと彰子は出産が終わりましたよね。
怨霊として出てきた、道長や彰子を恨む人物は誰だったのでしょうか?
時代考証を担当されている倉本一宏さんは、
道長と彰子については、二人を恨んでいる人物はたくさんおり、寛弘5年以前であれば、道長の兄である道隆と道兼がお決まりのパターンのように怨霊として登場します。
そして史料に明記されているわけではありませんが、彰子の出産となれば、定子も出てきたと思います。
引用:https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/blog/bl/ppzGkv7kAZ/bp/pxJoAnn7Db/
と話されています。
ドラマ内でも寄坐が3人いましたので、
- 道隆(井浦新)
- 道兼(玉置玲央)
- 定子(高畑充希)
の怨霊が出てきたということだったのでしょう。
しかし道隆はともかく、『光る君へ』の道兼や定子は、怨霊として出てくるタイプではないですよね〜
私としては寧ろ、道長の中にある罪悪感が怨霊として顕在化したのではないかと感じました。
出産後の、「道長が敦成親王におしっこをかけられても喜んでいた」というエピソードはカットされていましたが、それほどまでに道長は皇子の誕生を喜んでいたようです。
また五十日の儀で実資(ロバート秋山)が彰子の女房の袖を取り、何かを数えていましたよね。
これはセクハラではなく、決められた数よりも多く着て華美になっていないか数えていた=宴会の席でも仕事をしていたのです!
紫式部も日記で「他の人と違う」と褒めています。
ロバート秋山さんがしているとセクハラにしか見えませんでしたが、仕事中だったんですね(笑)
宮の宣旨がまひろに送った文(37話)
37話で、彰子(見上愛)が「里に帰った藤式部(まひろ)に、戻って来るよう文を出せ」と、女房の1人・宮の宣旨に頼んでました。
宮の宣旨がまひろに送った文に何と書かれていたのかについては、Xで分析された方がいらっしゃいました!
#光る君へ
先つころ宮の御方の
仰せられていふやう
藤式部のさふらはぬ
はすさましとく参る
へしと申せとありこの
旨よくゝゝ存すへき
なり かしく
藤式部とのへ pic.twitter.com/17UXdA9q1T— 二之丸 (@4Syu2) September 29, 2024
現代語訳にすると、
「先日、彰子さまが仰せになったことには『藤式部がいないのはつまらない、早く参上しなさいと言っておきなさい』とのこと。
このことをよくよく知っておくべきです。
かしこ(女性が手紙の終わりに書く語)
藤式部殿へ」
となりますね。
彰子の女房たちはまひろに対して意地悪なイメージがありましたが、宮の宣旨は彰子の言葉をちゃんと伝えてくれていたんですね(*^^*)
盗人騒動(37話)
37話で、彰子(見上愛)がいる藤壺に盗人が入り、女房の着物を盗んでいきました。
こちらは実際に『紫式部日記』に書かれている出来事で、大晦日に起こったそうですが、『光る君へ』と『紫式部日記』では異なる部分がありましたので、ご紹介していきます。
『光る君へ』 | 『紫式部日記』(実際は?) |
悲鳴が聞こえた時、『源氏物語』を書いていた | お歯黒を付けていた |
まひろだけが彰子を助けに行った | 紫式部だけでなく、同室の女房2人を含む3人で行った |
被害に遭った女性2人は白い寝間着姿 | 裸 |
詳しいその後は描かれず | 弟・惟規を呼んだが既に帰宅していて、別の蔵人(天皇の秘書的な)が駆けつけてくれた |
道長は「お前(まひろ)しか彰子さまを助けようとしなかったのか」と怒っていましたが、実際は紫式部の他にも2人助けに向かっていました。
また、NHKではさすがに裸にするわけにはいかなかったようですね(^_^;)
伊周の親戚の呪詛事件(38話)
38話で伊周(三浦翔平)の親戚が道長、彰子(見上愛)、敦成親王を呪詛し、処罰を受けていましたよね。
その呪詛事件について、詳しく調べてみました!
【呪詛を計画した人】
- 源方理(伊周の義理の兄)
- 高階光子(伊周の叔母)
【呪いのお札を作った人】
僧・円能(源方理の義父に仕えていた)
源方理から紅花染めの打掛(1番上に羽織る着物)
高階光子から絹一疋(当時の庶民の100~200日分の給料に相当)
を渡され、引き受けた。
【流れ】
1009年1月30日 呪いのお札が見つかる
↓
2月1日 道長に連絡が行く
↓
2月4日 呪いのお札を作った円能を逮捕
↓
2月5日 円能を拷問し、自白させる
↓
2月20日
除名処分(朝廷から与えられた財産没収&官位剥奪)
源方理、高階光子は参内停止処分
伊周は円能は還俗(僧を辞める)&除名処分
↓
6月19日 伊周の処分が解け、参内が許される
↓
1010年 源方理が復位(位が戻る)&円能も許される(※高階光子は不明)
伊周自身が呪詛を行ったわけではなく、伊周の縁者が呪詛を行ったというわけです。
しかし伊周も割とすぐに許されていますし、陣定で「死罪だ〜」とまで言われていた源方理でさえ、1年後には許されています。
死罪相当の罪を犯しても許されるなんて、「平安」時代ですね〜
人物解説
『光る君へ』で筆者が「この人本当にそういう人だったの?詳しく知りたい!」と思った人物をまとめました!
為時の他の妻
『光る君へ』1話で、「平安時代、男性が妻を複数人持つことは珍しくなく、為時もたびたび家を空けていました」というナレーションが入っていましたよね。
紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)には素敵な奥さんがいて、しかも貧乏なのに、「他の女性の面倒見る余裕なんてあるのか?」と気になったので調べてみました!
藤原為時の他の妻(妾)の詳しい情報については分かっていないようですが、妾がいたのは確かのようです。
藤原為信の娘(『光る君へ』内での名前は「ちやは」)との子どもは、
- 長女(名前不明。『光る君へ』内にも登場せず)
- 次女・紫式部(吉高由里子)
- 長男・藤原惟規(高杉真宙)
の3人です。
為時には他に「生母不明の子ども」が3人おり、全員が兄弟とも限らないようです。
そのため為時には少なくとも1人、多いと3人以上の妾がいたのではないかと考えられます。
藤原為時と妾との間に生まれた、3人の子どもについてご紹介しています。
【1人目・藤原惟通】
- 生誕不明
- 没年月日:1020年7月25日
貴族として、
- 蔵人所雑色
- 右兵衛尉
を歴任。
【蔵人所とは?】
事務を行う場所。
天皇の秘書的な役割をした。
【雑色とは?】
蔵人の見習い。
雑務をこなす。
【右兵衛尉とは?】
天皇やその家族の護衛をする部署「兵衛府」の役割の一つ。
常陸国(現在の茨城県)に在職中、40代前半くらいで死去。
惟通の死後も、惟通の母(為時の妾)と惟通の妻子は常陸国にとどまった。
惟通の没後、惟通の妻が襲われる事件が起こる。
惟通の母(為時の妾)の訴えにより犯人は逮捕されたが、翌年には釈放された。
息子の惟通の死後も生きていたということは、為時の妾は結構長生きで、嫁思いだったことが分かりますね。
惟通は一条天皇にも仕えていたため、紫式部とは宮廷で会っていたかもしれませんね。
【2人目・定暹】
- 生誕:980年頃?
- 没年月日:没年不詳
三井寺(滋賀県大津市の寺院)の僧侶。
為時も後にこの寺で出家したと言われている。
一条天皇の葬儀にも僧侶として参列した。
紫式部は出家したがっていたので、定暹がいるお寺で出家することを想像していたのかもしれませんね。
【3人目・藤原信経室】
生没年不明。
1010年頃、貴族・藤原信経と結婚。
信経は1009年頃に越後守に任命されていて、1011年に辞任し、その後、為時が越後守となる。
1014年に為時が越後守を辞任すると、信経が越後守に再任された。
藤原信経室は夫について越後に行っていたと思うので、宮中にいた紫式部とはあまり関わりがなかったかもしれませんね。
なお清少納言(ファーストサマーウイカ)は、藤原信経が作成した絵図面(家や土地の平面図)を『枕草子』の中で酷評しています(^_^;)
紫式部の夫・宣孝(佐々木蔵之介)も清少納言に酷評されていましたので、異母姉妹揃って夫を清少納言に酷評されていますね(^_^;)
道兼は本当に気性が荒かった?
1話で1番と言っていいくらいのインパクトを残した藤原道兼(玉置玲央)。
弟にも従者にも暴力的で、ラストではまひろの母親・ちはや(国仲涼子)を殺害していました。。。
紫式部の母親が亡くなったのは紫式部が4歳ごろであり、弟・惟規(高杉真宙)を出産してすぐに亡くなったとされています。
そのため、ちはやが道兼に殺害されたのはフィクションでしょう。
ちはや殺害がフィクションだとしても、
- 道兼は本当に気性が荒かったのか?
- 平安時代にも殺人事件はあったのか?
が気になったので調べてみました。
道兼は気性が荒いというか、冷酷で兄・道隆(井浦新)を妬んでいたのは事実のようです。
性格は非常に冷酷で、人々から恐れられていたという。
また、面倒で意地が悪く、長幼の順序もわきまえずに、兄の道隆をいつも諭しているようなところがあった。
一方で老成して男らしい人物という評価もある
引用:https://www.weblio.jp/content/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%85%BC?wpm_category=hotword&wpm_action=top&wpm_label=keyword
平安時代の歴史物語『大鏡』『栄華物語』には道兼の性格について、上記のように書かれているそうです。
「気性が荒い」「乱暴者」という記述はないようですが、気性が荒かったから恐れられていたという可能性もあります。
『光る君へ』でも道隆のことを敵視?というか、「父上、私も!私を!」的な感じではありましたが、道隆を妬んでいたのも事実のようです。
父・兼家(段田安則)は後に関白となりますが、990年に亡くなり、後任の関白には道隆が選ばれました。
【関白とは?】
成人した天皇を補佐する役割。
天皇が物事を決める前に、内容を吟味する権利があった。
『大鏡』によると道兼は、「自分は父上のために働いたのだから、当然自分が関白を継ぐべき」と思っていたそうです。
そして関白になれなかったことを憎み、父親の喪中にも関わらず、お客さんを集めて遊興にふけったそうです(^_^;)
『光る君へ』1話でも、兼家は「長男・道隆を清いものにしておくため、道兼には手を汚してもらわねば」的なことを言っていましたよね。
実際、道兼は花山天皇(本郷奏多)を退位させる時、花山天皇の出家をそそのかす実行犯となりました。
道兼にしてみれば、
「自分のおかげで花山天皇が退位し、詮子の子ども・一条天皇が即位できて、外祖父の父上が関白になれたのに、何で次の関白が私じゃないのだ!」
という感じだったのでしょう。
時代的にも長男が継ぐものだと思うのですが、道兼は「私が私が」タイプだったんですね。
そんな道兼にも順番が回ってきて、道隆の死後、関白に就任します。
しかし道兼は関白に就任して数日で、疫病で急死してしまうのです(^_^;)
必死に父親のために尽くし、兄以上の権力を欲したのに、あっけない最後だったんですね(^_^;)
道兼は冷酷で権力欲が強い人物だったことが分かりますが、道兼の次男・兼隆も乱暴者で、
厩舎人(馬の世話をする従者)を殴殺させた
藤原実資(秋山竜次)の下女の家を略奪・破壊させるよう従者に命じた
という事件があったそうです(^_^;)
平安時代は戦もなく雅なイメージがありますが、実際はこのように殺人事件もあったそうです。
『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』という本には、平安時代に起きた事件が詳しく載っているため、気になった方は読んでみてください♪
花山天皇は変人?
小さい頃から周りが手がつけられないほどで、成長してからは母娘に手を出したりと、さらに変人になっている花山天皇(本郷奏多)。
大分クセの強い人ですが、本当にそんな人だったのかな?と気になったので調べてみました!
花山天皇が変人だったのは本当であり、
天皇の玉座・高御座に美しい女官を連れ込み、手を出した
天皇に即位する前、王冠を脱ぎ捨てた
即位式で「王冠が重い」と天皇が生活する清涼殿の狭い庭で、馬を乗り回そうとした
藤原忯子LOVEで、忯子の親族に説得させて入内(結婚)した
それほど愛した忯子が妊娠中に亡くなり、花山天皇は出家
出家後、忯子の異母妹に手を出す
出家するほど忯子LOVEだったのに、同時期に母娘を妾にし、同時期に男子を妊娠させた
出家後、自宅前に通った人を襲撃するよう指示していたと言われている
などなど、数々のヤバい変人エピソードがあります(^_^;)
『光る君へ』2話時点では、まだ可愛いものだったんですね(笑)
特に女性エピソードやばすぎ(笑)
現代だったら炎上もんだわ(笑)
『光る君へ』でどこまで描かれるのか楽しみです(^_^;)
倫子の結婚が遅れた理由
左大臣の娘・源倫子(黒木華)は、22歳という年齢なのにまだ結婚していませんでしたね。
藤原斉信(はんにゃ金田)がアタックしていると言っていましたが、最終的には、
- 倫子→道長(柄本佑)
- 斉信→妻はいるが、不詳
と結婚しています。
兼家(段田安則)も「なぜ天皇に嫁がせないのか?」と怪しんでいましたが、倫子の結婚が遅れた理由は何だったのでしょうか?
左大臣・源雅信(益岡徹)は、自慢の娘・倫子を天皇の后にしようと考えていました。
しかし倫子は、円融天皇(坂東巳之助)、花山天皇(本郷奏多)、一条天皇(塩野瑛久)、三条天皇(木村達成)には入内(結婚)せず、道長の妻になっています。
天皇の后にしようと考えていたが、入内させなかった理由は、
「中継ぎ」とみなされていた
円融天皇→当時すぐに退位させられた
花山天皇→年齢が離れすぎていた
一条天皇→年齢が離れすぎていた
三条天皇→からではないかと考えられています。
円融天皇は、先代の天皇・冷泉天皇の弟であり、
冷泉天皇は病気がちだっため、
父・村上天皇「体が弱く、すぐに退位することになるかもしれないから、皇太弟(次の天皇となる弟)を立てなさい」
と言われていた
↓
これは、円融天皇を冷泉天皇の息子・師貞親王(後の花山天皇)が成長するまでの「一代主」にしようという考えだった。
【一代主とは?】
自分の息子に皇位を継がせられなかった天皇のこと。
つまり村上天皇、冷泉天皇は、
村上天皇
↓
冷泉天皇(村上天皇の息子)
↓
円融天皇(村上天皇の息子)←中継ぎ
↓
花山天皇(冷泉天皇の息子)
↓
花山天皇の息子
と継がせる気だった。
という事情で、「中継ぎ」の天皇とみなされていました。
そのため多くの貴族は、円融天皇に娘を入内させることをためらっていたということです。
倫子の父・源雅信も円融天皇を「中継ぎ」とみなしていたため、「花山天皇に嫁がせて皇子を産ませ、その子を次期天皇にしよう」と考えていたのではないでしょうか?
そして花山天皇が即位したわけですが・・・
花山天皇は前述の通り、兼家の策略によって2年で退位させられてしまいます(^_^;)
続いて円融天皇と詮子(吉田羊)の息子・一条天皇(塩野瑛久)。
一条天皇は倫子より16歳も年下!
即位した時点で6歳と22歳であるため、これは平安時代の常識でも「年が離れすぎている」と判断されたのでしょう(^_^;)
続く三条天皇(花山天皇の異母弟)も、倫子より12歳年下です。
このように天皇の后にする意思はあったもののタイミングが合いませんでした。
そんな時、道長が倫子に求婚!
倫子の父・源雅信は、
- 道長は三男で出世は望み薄
- 倫子より2歳年下(道長22歳、倫子24歳で結婚)
であるため道長と結婚させる気はなかったようです。
しかし倫子の母・穆子(石野真子)は、
「14歳も離れている一条天皇に嫁がせるより、実力者の息子である道長の方がまだ出世の可能性があるわ!」
と主張し、強引に倫子と道長を結婚させます(^_^;)!!
そのシーン見たすぎる(笑)
結果的に道長は時の最高権力者となり、道長と倫子の子どもは、
彰子(見上愛)→一条天皇に嫁いで王子を産み、2人の天皇の母になる(=倫子は天皇の外祖母)
頼通(渡邊圭祐)→摂政・関白
妍子→三条天皇(木村達成)の皇后
教通→関白
威子→後一条天皇の皇后
嬉子→後朱雀天皇の東宮時代の妃で皇子を産み、天皇の母になる
と全員大出世!!
穆子はめちゃくちゃナイス判断をしたということですね!!
前述の通り、道長&倫子の結婚を後押ししたのは倫子の母・穆子であるため、『光る君へ』のように詮子(吉田羊)の差し金ではありません。
しかし詮子は道長をかわいがっていたため、
兄一家を没落に追い込む
道隆(井浦新)の息子・伊周(三浦翔平)を圧迫し、道隆一家を没落に追い込んだことについては、この記事で詳しく解説してるよ!
身に覚えのない罪もあったけど、左遷されちゃったんだよね
倫子の位を昇格させる
道長の娘・彰子(見上愛)を一条天皇(塩野瑛久)に入内(結婚)させるため、母親であるといったことを行っています。
『光る君へ』では上記の出来事を、「父に復讐するために、源家と手を組んでやったこと」という設定にするのかもしれませんね。
実資が花山天皇時代、蔵人頭を辞退したのは本当?
4話で花山天皇(本郷奏多)が、藤原実資(ロバート秋山)に「引き続き蔵人頭をやってほしい」と言っていましたが、実資は「辞退します」と言っていましたよね。
【蔵人頭とは?】
事務を行う場所の長で、天皇の秘書的な役割をした。
大雑把に分けると4番目に偉い。
実資は花山天皇時代、本当に蔵人頭を辞退したのでしょうか?
実は実資は、花山天皇時代も蔵人頭を務めています(^_^;)
年 | 実資の官職 | どのくらい偉いのか? |
981年 (円融天皇時代) | 蔵人頭になる | 4番目に偉い |
983年 (〃) | 左中将(天皇やその家族の護衛をする部署の次官)に転任 | 〃 |
984年 (花山天皇即位) | 再び蔵人頭になる | 〃 |
986年 (花山天皇退位&一条天皇即位) | 蔵人頭ではなくなる | |
986年 (一条天皇時代) | 再び蔵人頭になる | 〃 |
1001年 (〃) |
になる | 3番目に偉い |
1021年 (一条天皇の息子・後一条天皇時代) | 右大臣(司法・行政・立法を司る最高行政機関・太政官の職の一つ)になる | 2番目に偉い |
このように、『光る君へ』内では花山天皇の申し出を断っていた実資ですが、ガッツリ蔵人頭になっているんですよね〜
花山天皇の在位期間は2年ほどなので、実資が蔵人頭を辞退したという設定にしても物語上大きな問題はなさそうです。
このまま辞退したことにするのか、史実通り花山天皇時代も蔵人頭を務めるのか気になります!
清少納言と斉信の関係
6話の漢詩の会にて、清少納言(ファーストサマーウイカ)と藤原斉信は出会いました。
「斉信さまの選んだ歌が好き♡」「鼻をへし折ってやりたくなる」と、お互いに意識しているようでしたが、今後どのような関係になっていくのでしょうか?
簡単にまとめると、清少納言は斉信を「イケメン」と称しており、親しく文(手紙)のやり取りをしていた関係です!
清少納言は981年頃に、斉信家の家司・橘則光と結婚しています。
【家司とは?】
その一家の
- 事業(土地の支配や商人の事業など)
- 家事全体
を担当する職員のこと。
つまり、清少納言は『光る君へ』6話時点で既に人妻だったということですね!
その後離婚してバツイチになりますが、斉信とは再婚していません。
結婚していないにしろ、清少納言と斉信が親しかったのは確かなようで、有名なエピソードがあります。
斉信は、清少納言が務めていた定子(高畑充希)サロンによく出入りしていて、清少納言とも交流がありました。
ある時、斉信は清少納言についてのデマの噂話を信じ、
「どうして、あんな女を褒めてしまったのだろう」
と、悪口を言ったのです(^_^;)
デマなので清少納言は放っておいたのですが、斉信には無視されるまま・・・
ある雨の夜、清少納言は「斉信さまが、『清少納言と会わないのは寂しいから、文でも送ろうかな』と言っている」と、同僚の女房から伝えられます。
その夜、本当に斉信から文が届き、お使いの人から「早く返事を!」と急かされるので見てみると、
「『花の季節に、宮中で華やかな生活を送っている』←この下の句は何だ?」
といった内容でした。
これは、中国の詩人・白楽天の歌。
下の句の意味は「雨の中、私は1人で山の中のボロ家にいる」。
つまり、斉信は清少納言に「『雨の中、私は1人で山の中のボロ家にいる』と書け〜」という、嫌味な手紙を送ってきたということですね(^_^;)
清少納言は斉信の文に対し、
「こんな雨の夜に、ボロ家を訪ねてくる人なんていませんけど?」
といった内容の、白楽天の下の句とは違う返しをしました!
斉信から返事は来ませんでしたが、次の日、
斉信が送った手紙は、同僚の男性みんなで考えたものであること
斉信も含め、みんな絶賛したこと
清少納言が見事な返しをして、返事をみんなで一晩考えたが、上手い返事が思い浮かばずにギブアップしたこと
などが明らかに!
それがきっかけで斉信とも仲直りをし、清少納言のあだ名が一時期「草の庵(ボロ家という意味)」になったというエピソードです(笑)
要は「お互い無視してたけど、寂しくなった男の子が女の子にちょっかいを出して、女の子の方が一枚上手だった」という、小学生みたいなことをしていたということですね(笑)
ファーストサマーウイカさんの得意気な顔も、金田さんの「やられた〜」顔も見てみたいので、『光る君へ』でもこのエピソードはやってほしいです♪
道兼の参内拒否&離婚は本当?(14話)
14話の兼家(段田安則)の死後、道兼(玉置玲央)は、
- 参内(出勤)しない
- 喪に服さない
- 妻から離婚を言い渡される
という散々な状況でしたが、これらは本当だったのでしょうか?
調べた結果、道兼が喪に服さない&離婚したのは本当ですが、参内しなかったという情報はありませんでした!
道兼は実際、兼家の後継者に兄・道隆(井浦新)が選ばれたのが気に入らず、兼家の喪中にお客さんを集めてお酒を呑んだり賭け事やったりしていたとのこと(^_^;)
道兼の妻(正妻ではない)・繁子が道兼と離婚した時期は分かりませんが、992年に平惟仲と再婚しています。
道兼と繁子の娘・尊子は後に一条天皇(塩野瑛久)の女御(妻の1人)となるのですが、それは道兼の死後。
そのため離婚した際、繁子が娘を引き取ったのもおそらく本当なのだと思われます。
離婚の理由については明らかになっていませんが、道兼より下の地位であった平惟仲と再婚しているため、
- ドラマ通り、父親の喪に服さない道兼が嫌だった
- ドラマ通り、平惟仲が好きになった
- 妾が嫌で、正妻になりたかった
といった理由だったかもしれませんね。
父親の喪にも服さず、妻とも離婚することになった道兼ですが、後継者が道隆に決まった後、参内(出勤)しなかったという情報はありませんでした。
それどころか、道隆の政権下で991年に内大臣、994年には右大臣に昇進しています。
参内をサボっていたら、いくら道隆の弟でも昇進が滞っても不思議ではないですよね。
そのため後継者が道隆になった後も、悔しさをこらえつつ参内はしていたのではないかと考えられます。
宣孝が筑前守に就任(14話)
14話で宣孝(佐々木蔵之介)が「筑前(現在の福岡県北西部)に行くことになった〜!わしもいよいよ国司(地方の国を治める役人)じゃ〜」的なことを言っていましたよね。
宣孝が筑前に行ってしまったら、しばらく登場しなくなってしまうと思うのですが、本当なのでしょうか?
宣孝が筑前守に任じられたのは本当で、都に帰ってくるのは993年〜998年(正確な時期不詳)です!
宣孝は、
藤原知章という人物が、春に筑前守に任じられた
↓
着任後、息子や従者30人余りが病死
↓
知章は筑前守を辞退
↓
8月に、宣孝が筑前守に任じられた
という流れで、筑前守となりました。
筑前は「上国」であり出世であるため、宣孝は「御嶽詣のご利益じゃ〜」と喜んでいましたね♪
【上国とは?】
地方は土地の広さや農産物の撮れ高により、
- 大国
- 上国
- 中国
- 下国
と格付けされていた。
宣孝はド派手な格好で御嶽詣に行っていましたが、その姿は後に清少納言が『枕草子』の中で話題にしていました(^_^;)
宣孝はその後、993年〜998年(正確な時期不詳)のどこかで都に帰ってきて、998年に紫式部と結婚します。
『光る君へ』14話時点では990年ですが、15話では993年くらいまで進むようなので、しばらく宣孝が登場しないということはなさそうですね♪
清少納言の離婚&子供捨てるは本当?(14話)
14話でききょう(清少納言)が「夫とは別れるつもり、子供も夫におっつけてしまおうと思っている」という爆弾発言をしていましたが、本当なのでしょうか?(^_^;)
清少納言が夫に離婚を言い渡したのは本当ですが、子供については情報がありませんでした。
清少納言は981年ごろ、16歳くらいの時に橘則光と結婚しています。
【橘則光とは?】
平安時代中期の貴族。
母親が花山天皇(本郷奏多)の乳母であり、則光自身は藤原斉信(はんにゃ金田)の家司(その一家の事業・家事全体を担当する職員)でもあった。
結婚の翌年、982年には第一子となる橘則長を授かります。
清少納言の夫・橘則光は、平安時代後期に作られた勅撰和歌集『金葉和歌集』にも歌が採用されている勅撰歌人でもあるのですが・・・
清少納言は『枕草子』で、橘則光を「和歌が苦手」と評しています(^_^;)
【勅撰和歌集とは?】
天皇や上皇の命で作られた歌集のこと。
勅撰和歌集に歌が収録されている歌人は「勅撰歌人」と呼ばれる。
橘則光は歌が苦手なわけではないと思うのですが、「俺に和歌を詠んでくるなら絶交する」と言っていたそうです(^_^;)
そんな人とは合わなかったのか、何となく仲が悪くなっていったそうで、時期は不明ですが993年までには離婚しているのではないかと言われています。
1人息子の則長がどちらに引き取られたのかは分かっていませんが、
- 息子の名字は「橘」のまま
- 清少納言には離婚後、再婚して娘が生まれている
といったことから、夫・橘則光が息子を引き取ったのかもしれませんね。
清少納言は橘則光との離婚後、藤原棟世と再婚し、娘・上東門院小馬命婦を授かっています。
【藤原棟世とは?】
結婚当時、摂津守(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部を治める役人の中で1番上の階級)を務めていた。
清少納言より20歳以上年上であったと言われている。
【上東門院小馬命婦とは?】
10歳くらいで、道長の娘・彰子(見上愛)に仕え始める。
勅撰和歌集『後拾遺和歌集』にも歌が載っている歌人でもある。
橘則光は『枕草子』にもたびたび登場することから、離婚後も交流は続いており、仲もそこまで悪くなかったようです。
前章の「清少納言と斉信の関係は?」の章で解説している「清少納言と斉信の草の庵のエピソード」で、次の日に、
斉信が送った手紙は、同僚の男性みんなで考えたものであること
清少納言が見事な返しをして、斉信も含め、みんな絶賛したこと
返事をみんなで一晩考えたが、上手い返事が思い浮かばずにギブアップしたこと
を伝えてきたのは、元夫である橘則光!
橘則光は草の庵のエピソードについて、元妻である清少納言に「君が誇らしかった」と褒めているため、離婚後も割といい関係が続いていたのではないでしょうか♪
『光る君へ』で橘則光や藤原棟世を誰が演じるのかも気になりますね!
清少納言の名前の由来(15話)
15話で、ききょう(ファーストサマーウイカ)が定子(高畑充希)の女房(お世話係&家庭教師)になった際。
定子が「今日からお前を『清 少納言』と呼ぶことにする」と言っていましたね。
- なぜ「ききょう」と呼ばないのか?
- なにが由来で「清少納言」になったのか?
を解説していきます!
まず「ききょう」と呼ばない理由は、
相手を実名で呼ぶことは不吉だったから
平安時代、実名は死後に名付けられる慣習があり、宮中では仮につけたられた「召名」「女房名」で呼ばれるから
そのため、です!
清少納言という名前=召名・女房名だったということですね。
続いて、なにが由来で「清少納言」になったのかは、
清→父親の名前が「清原元輔」だから
少納言→不明
です。
召名・女房名は、
- その人の特性を簡単に表す字(ex.紫式部の「紫」は、『源氏物語』の登場人物・紫の上から)
- 父・兄弟・夫などの官職名(ex.紫式部は、父親が式部省に勤めていた)
の2つを合わせた名前にすることが多かったようです。
清少納言の場合、定子の母・高階貴子(板谷由夏)が言っていたように、「清」は父親の名字から来ています。
しかし、清少納言の父・兄弟・夫などで「少納言」の官職についた人はいません。
そのため、なぜ「清少納言」という名前になったのかは明らかになっていませんが、
一時期夫だったと言われる人(ききょうが「別れた」って言ったのとは別の人)が、少納言だった説
ご先祖さまが少納言だった説
姑)が少納言と呼ばれていた説
別れた夫の母(=定子が名付けた説
家族の官職ではなく、があるそうです。
『光る君へ』では、定子が名付けた説を採用したということですね♪
清少納言は定子LOVEなので、定子が付けてくれた名前を気に入っていたのではないでしょうか♡
伊周が通っていた女性(17話)
17話で、伊周(三浦翔平)が「先の太政大臣の三の君・光子さまの所に行く」と言っていました。
先の太政大臣→藤原為光(斉信のパパ)のこと
三の君→三女のこと
※母親は、兼家の兄・伊尹の娘=(斉信とは異母兄弟)
であり、為光の三女は「寝殿の上」「三の君」と呼ばれていますが、『光る君へ』での名は「光子」になっていました。
為光の三女は元々、左大臣・源雅信(倫子パパ)の妻の1人だったのですが、伊周の妾になります。
後に伊周は、為光の三女のもとに通っていたことが原因の一つとなり、失脚してしまうのです(><)
為光の三女のもとに通っていたことが失脚の原因になったことについては、こちらの記事で詳しく解説しています!
簡単にまとめると、
花山天皇(本郷奏多)が為光の四女のもとに通うが、伊周は「オレと同じ女を狙ってる!」と勘違い
↓
弟・隆家(竜星涼)に相談したところ、花山天皇の袖を矢で射抜いちゃう(^_^;)
↓
2人とも左遷
という流れです。
隆家が早く都に帰ってきた理由(24話)
24話で伊周(三浦翔平)・隆家(竜星涼)の帰京が許されました。
都まで20日はかかると言われている出雲国(現在の島根県東部)にいたはずの隆家が、不可解なほど早く帰京できたのはなぜなのでしょうか?
実は隆家は出雲国まで行っておらず、病気を理由に但馬国(現在の兵庫県北部)にいたのです(^_^;)
都のお隣りにいたわけですから、そりゃすぐに帰ってこられますよね(^_^;)
史実でも、
997年4月5日 伊周&隆家を都に呼び戻すかの会議が行われる
4月22日 隆家が都に戻る
と、会議からわずか17日で帰京したそうです。
実際は、
会議が行われてOKが出る
↓
「都に帰ってきていいよ」の文を隆家に届ける
↓
隆家が20日かけて帰って来る
というスケジュールのはずなので、会議の日から17日で帰ってこられるはずはないんですよね〜(^_^;)
ちなみに伊周はちゃんと大宰府(現在の九州)まで行き、都に帰ってきたのは997年12月で、半年以上かかっています。
和泉式部の恋愛遍歴
30話で登場した、あかね(和泉式部)は何やらセクシーな雰囲気で「親王さまが〜」と、恋に突き進んでいる女性に見えましたよね〜
紫式部からも後に「和歌は素晴らしいが、素行は感心しない」と評されています(^_^;)
そんな和泉式部の華麗なる恋愛遍歴をまとめてみました!
①橘道貞
和泉守(現在の大阪府南西部を治める役人のTOP)。
〜999年頃 21歳ごろに、父親の考えで橘道貞と結婚
997〜999年の間 道貞との間に娘が誕生
その後、結婚生活が破綻(離婚はせず)
和泉式部は道貞と離婚はしなかったようですが、後にバンバン恋愛しています(^_^;)
②為尊親王
三条天皇(木村達成)の弟で、既に正妻がいた。
熱愛が噂になるが、「身分違いの恋だ!」と、和泉式部は親から勘当される。
1002年に死別。
親王は天皇の息子であり、和泉式部も貴族であるものの、まひろ同様そこまで身分は高くないので、確かに「身分違いの恋」ですね〜
身分違いの恋をした上に死別なんて、ドラマみたいです(><)
③敦道親王
三条天皇(木村達成)、為尊親王の弟で、既に正妻がいた。
1003年〜 恋愛関係になり、正妻とは後に離婚
1006年頃 敦道親王との間に息子が誕生
1007年 敦道親王死去
為尊親王と敦道親王の家系図はこちら♪
敦道親王にも既に正妻がおり、和泉式部を自分の屋敷に住まわせたため、正妻は家出&離婚してしまったようです。
『光る君へ』に例えれば、道長が倫子との屋敷にまひろを住まわせるようなものですから、それは当然ですね(^_^;)
④源雅通
倫子パパ・源雅信の養子。
一時期恋愛関係にあったと見られている。
⑤源俊賢(本田大輔)?
道長のもう1人の妻・明子の義母兄。
『和泉式部日記』内で、噂されている。
今後、俊賢と共演するシーンがあったら要注目ですね!
⑥藤原保昌
道長の家司(道長一家の事業や家事全体を担当する職員)。
1013年頃 再婚し、一緒に丹後(現在の京都府北部)に行った
⑦?
和泉式部の子供は、
- 1人目の夫・道貞との娘
- 敦道親王との息子
だが、3人目の子供がいるとのこと。
父親が分からないが、生まれた時期は道貞との結婚関係が破綻した後or2人目の夫・保昌と結婚する前と見られている。
- 2回の結婚
- 既に正妻がいる親王2人を手玉にとる
- 子供は3人
- 他にも噂になった人数人
と、すんごい恋愛遍歴ですね〜(^_^;)
めちゃくちゃ恋に生きている感じがして、「どんだけ魅力的な人だったんだ」と羨ましくなってしまいます(笑)
『光る君へ』30話時点では、敦道親王と交際している最中であるため、その後死別したり、再婚したりが描かれるのが楽しみですね〜
『光る君へ』ではいないキャラだったから新鮮(笑)
定子さまも魅力的だったけど、ずっと一途だったから全然違うし
伊周の復権(32話)
32話で、伊周(三浦翔平)の席順が道綱や実資より上だったり、一条天皇が伊周を陣定(重要な会議)に出席させるよう命じたりと、立場が戻ってきていますよね。
弟・隆家(竜星涼)のやらかしで左遷され、定子(高畑充希)も亡くなったのに、地位が戻り始めているのはなぜでしょうか?
1003年ごろから伊周の地位が戻り始めていたのは史実通りであり、理由は一条天皇の第一皇子の伯父だからです!
道長は彰子(見上愛)を一条天皇に嫁がせましたが、なかなか子どもは授からず、1008年まで一条天皇の皇子は定子が産んだ敦康親王のみ。
みんなは「このままだと次の皇太子は敦康親王だから、敦康親王の伯父の伊周にもごまをすっておいた方がいいな」と、昼は道長に仕え、夜は密かに伊周の屋敷に行っていたのです。
結局1008年に彰子が皇子を授かり、彰子の産んだ第二皇子が定子の産んだ第一皇子を退けて皇太子となるわけですが・・・
一時期、内大臣(左大臣・右大臣に次ぐNo.3)にまでなった伊周は、どこまで地位を戻したのか、史実をもとにまとめてみました!
年 | 伊周の地位 |
996 | 長徳の変のやらかしで左遷(それまでの地位は内大臣) |
1003 | 従二位(上から4番目の官位)になる |
1005 | 座次が大臣の下、大納言の上になる(公季の下、道綱の上) ※ドラマ内でも描かれていた |
極秘に天皇と会見 | |
政に参加 | |
1008 | のちに准大臣(大臣に准ずる)と称される地位になり、会議での発言権を持つ |
ここで彰子が第二皇子出産! | |
1009 | 正二位(上から3番目の官位)になる |
伊周の叔母による彰子&第二皇子の呪詛事件が起き、参内を止められるが、数ヶ月で一件落着して再び参内 | |
1010 | 37歳で死亡 |
伊周は定子が第一皇子を産んでいたからこそ、やらかしたのに復権できたということでしょう。
この時代、どれだけ皇子を産むことが大事だったのかが分かりますね。
彰子が第二皇子を産んだ後も一応出世しているのは、王位継承権では第一皇子の方が優位だからということだと思われます。
前述の通り、定子の第一皇子は皇太子にはなれず、彰子の第二皇子が皇太子となったわけですが、それは1011年なので伊周の亡くなった後のこと。
実際の伊周だったら分かりませんが、『光る君へ』の伊周が生きていたら、何としてでも定子の子どもを皇太子にしたでしょうね(^_^;)
和歌・漢詩解説
『光る君へ』で出てきた和歌・漢詩について、
- 原文
- 意味
- 超訳
をご紹介していきます!
まひろが写本(2話・30話)
2話でまひろが写本し、30話でまひろが賢子を見ながら思い浮かべていた歌は、紫式部の曽祖父・藤原兼輔が詠んだ和歌です。
【原文】
「人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」
【意味】
「子を持つ親の心は闇というわけではない。
しかし親は子どものことになると、道に迷ったかのように混乱してしまう」
- 2話では自分自身が父・為時との関係に悩んでいる時
- 30話では娘・賢子との関係に悩んでいる時
と、まひろの立場が変化しているのがエモいですね〜
まひろが代筆した和歌(2話)
2話でまひろが片想い中の男性のために代筆した和歌は、『源氏物語』に出てくるものです。
【原文】
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」
【意味】
「近くに来て、はっきりご覧になったらいかがですか?黄昏の時にうっすら見えた夕顔の花を」
【超訳】
「会ってみませんか?」
『源氏物語』の中で、夕顔から「あなたはもしかして光源氏ですか?」という歌を贈られ、光源氏が返したのがこの歌です。
夕顔について詳しくは、こちらの記事で解説しています!
倫子サロンで議論(6話)
6話の倫子サロンで議論されていた和歌は、兼家の妾・寧子(財前直見)が書いた『蜻蛉日記』に収録されているものです。
【原文】
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」
【意味】
「あなた(兼家)がいないのを嘆きながら一人孤独に寝て、夜が明けるまでの時間がどれほど長いか、あなたは分からないでしょう」
【超訳】
「あなたがいない夜は寂しい」
「妾だから一緒の家にいるわけではない」という寧子ならではの目線ですね。。。
漢詩の会(6話)
6話で道隆(井浦新)が開いた「漢詩の会」。
お題は「酒」であり、
- 道長
- 公任
- 斉信
- 行成
の選んだ歌が詠まれていました。
何となく「恋の歌かな〜」「出世したいのかな〜」くらいは分かったのですが、どういう意味か分からないものが多かったので、調べてみました!
【原文】
獨酌花前醉憶君 與君春別又逢春 惆悵銀杯來處重 不曾盛酒勸閒人
【意味・超訳】
親友が戻らないことを嘆く歌。
「独りで酔って君を思い出している。去年の春に君と別れて、また春がやってきたのに、親友はまだ戻らないな〜。
親友がくれた銀の盃は立派なので、酒を入れて僕に勧めてくれる人もいない・・・」
【引用元】
中国の詩人・白居易(白楽天)の「独酌憶微之」
親友とは、同じく中国の詩人である元微之を指している。
親友に向けた歌ですが、恋の歌としても使えますよね。
行成に別れた親友がいたという情報はありませんでしたし、恋をしている様子もありませんでしたので、誰に向けた歌なのか気になります(><)
【原文】
酒盞酌來須滿滿 花枝看即落紛紛 莫言三十是年少 百歲三分已一分
【意味・超訳】
自分で酒を勧める歌。
「酒を並々と注いでくれ!早くしないと花が散ってしまう。30歳を『まだ若い』なんて言うな!既に人生の1/3は過ぎてしまったんだ!」
【引用元】
中国の詩人・白居易の「花下自勸酒」
要は、出世できないことを焦っているのかな?と思いました。
花山天皇の妻である妹に出世をお願いしていましたが、妹は亡くなってしまい、出世の道が遠のいてしまいましたもんね(^_^;)
【原文】
賜酒盈杯誰共持 宮花滿把獨相思 相思只傍花邊立 盡日吟君詠菊詩
【意味・超訳】
親友を思って詠った歌。
「9月9日・重陽の節句で、天皇からもらったお酒はいっぱいあるけど、一体誰とこの酒を飲めばいいんだ(><)
宮中に生えてる菊の花を手のひらいっぱいに掴み、1人で君のことを思っている。
君を思いながら菊の花のそばに立ち、1日中、君が作った『菊の花の歌』を口ずさんでいる」
【引用元】
中国の詩人・白居易の「禁中九月対菊花酒憶元九」
こちらも、同じく中国の詩人である元微之を思って詠った歌。
親友に向けた歌ですが、道長は恋の歌として使っていましたね。
要は、まひろに「大好きだよ!!」と伝えたかったということでしょう(笑)
まひろは道長が選んだ歌で頭がいっぱいだったから、公任について聞かれた時も、道長の歌の引用元である白楽天(白居易)の名前を出していたんですね。
【原文】
一時過境無俗物 莫道醺々漫酔吟 聖明治蹟何相致 貞観遺風觸眼看
【意味・超訳】
「目に通過するものは、風流なものばっかり。酒に酔って歌を詠っているとは言わないでくれ。
優れた君主である中国の唐の第2代皇帝・太宗が治めている平和な世の中を、改める必要もない」
【引用元】
引用ではなく、自作の詩。
平安中期の漢詩集・『本朝麗藻』には、公任の歌として上記のものが書かれているため、自作の歌である。
その後、道隆が「太宗を使って今の天皇が盤石であることを表している」的なことを言っていたので、公任は「太宗=花山天皇(本郷奏多)」と意味で詠んだのでしょう。
要は、「オレ別に酔って言ってるわけじゃないんだけど、天皇は花山天皇のままで良くない?」ということだと思います。
公任の父親である関白・藤原頼忠も、兼家と一緒になって花山天皇の退位を望んでいたはずなのに何でだろう?と思ったのですが・・・
公任はその後、花山天皇が退位し、一条天皇(塩野瑛久)が即位したことにより、父親が関白を辞め、昇進がずーっと停滞しちゃうんです(^_^;)
そのため、花山天皇退位後に公任が出世できなくなったことを暗に匂わせているのかもしれないと思いました!
道長がまひろに送った歌(6話)
6話のラストで道長がまひろに歌を送っていました。
「恋の歌だろうな〜」ということは分かったのですが、詳しい意味も理解したかったので調べてみました!
【原文】
ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 恋しき人の みまく欲しさに
【意味】
「神社の神聖な垣も超えてしまいそうです。恋しいあなたを見たくて」
【超訳】
「身分や障壁すら超えてしまいたくなるほど、まひろが好きだ!会いたい!!」
【引用元】
平安時代中期に成立した現存する日本の歌物語中最古の作品『伊勢物語』の、
「ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 大宮人の 見まくほしさに」
をアレンジしたもの。
道長は和歌や漢詩が苦手だと言っていたのに、漢詩の会でも恋の歌を選び、その後にも恋の歌を送るなんて、よっぽどまひろが好きなんですね〜
史実では、道長は倫子(黒木華)と、まひろは宣孝(佐々木蔵之介)と結婚することになります。
こんなに愛し合っていた2人が、お互い別の人と結婚してしまうなんて切なすぎます(><)
まひろと道長の和歌・漢詩のやり取り(10話)
10話で、
- 道長→まひろに和歌を贈る
- まひろ→漢詩で返す
というやり取りをしていました。
話している現代語のセリフにより、何とな〜く「道長は『会いたい』って言ってるけど、まひろはあしらってるな〜」くらいは分かったのですが・・・
もっと深く理解したいと思い、調べてみました!
それぞれの超訳は筆者の解釈ですので、参考程度にしていただければ幸いです。
この他まひろの気持ちについては、
- 直秀のことから立ち直れない道長に対し、叱咤激励している
- 陶淵明のように、役人の道を捨てて生きてほしいと思っていた
という解釈もあるようです。
【原文】
「思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 色には出でじと 思ひしものを」
【意味・超訳】
「ひっそり思いつつ耐え忍ぼうとしたが、耐え忍ぶ心が負けてしまった。表には出すまいと思っていたのに」
【引用元】
60代天皇・醍醐天皇の命により作られた、勅撰和歌集(天皇や上皇の命で作られた歌集)『古今和歌集』の「巻第十一 恋歌一」503番・ 詠み人知らず
恋の始まりを現す歌を集めている巻から引用した歌で、作者は不明
まひろと道長は身分違いの恋なので、「好きだ」という気持ちを隠さないといけないけれど、それが抑えられないということですね(><)♡
【原文】
「既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲」
【意味・超訳】
「今まで精神を肉体の奴隷にしてきたのだから、もう1人でくよくよと嘆いたって仕方ない」
【引用元】
中国の文学者・陶淵明の代表作「帰去来の辞」
歳を重ねて世の中に嫌気が差し、役人の地位を捨てて故郷である田舎に帰るときの決意を歌ったもの。
陶淵明自身は、
「世に嫌気が差した心を奴隷にし(心に蓋をし)、今まで役人として生きてきたのだから、(田舎に帰ることを)もう1人でくよくよと嘆いたって仕方ない」
と、決意していたということだと思われます。
まひろが引用したということは、道長の「好きだ」という気持ちをあしらっていると取れますね。
【原文】
「死ぬる命 生きもやすると 試みに 玉の緒ばかり 逢はむと言はなむ」
【意味・超訳】
「あなたを想って今にも死にそうな私の命が生き延びることもあるかもしれないから、試しにでもいいから『少し会おう』と言ってほしい」
お願いだから「ちょっと会おう」と言ってくれ!!
【引用元】
『古今和歌集』の「巻第十二 恋歌二」568番・ 藤原興風
恋の始まりを現す歌を集めている巻から引用した歌。
藤原興風は平安時代前期の歌人であり、官位は低かったが、『古今和歌集』の時代の代表的な歌人であり、管弦(音楽)にも秀でていた。
平成では「会いたくて震える」がありましたが、平安では「会いたくて死にそう」があったんですね〜(笑)
【原文】
「悟已往之不諫 知來者之可追」
【意味・超訳】
「過去は変えられず、今更後悔しても仕方ないと悟り、未来は変えられると知った」
でも、未来を変えましょう
【引用元】
陶淵明の「帰去来の辞」
歳を重ねて世の中に嫌気が差し、役人の地位を捨てて故郷である田舎に帰るときの決意を歌ったもの。
陶淵明は「(役人として生き、役人の地位を捨てた)過去は変えられないが、未来(田舎に帰った後)は変えられる」と、決意していたということだと思われます。
道長が「会いたい」と言っているにも関わらず、まひろは直秀のことを持ち出しており、後のシーンで言っていたように「未来を変えてください」と言っていますね。
【原文】
「命やは 何ぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに」
【意味・超訳】
「命が何だというのだ。所詮は露のように儚いもの。命と引換えにあなたに会えるのであれば、命なぞ惜しくはない」
【引用元】
『古今和歌集』の「巻第十二 恋歌二」615番・ 紀友則
恋の始まりを現す歌を集めている巻から引用した歌。
紀友則は平安時代前期の歌人であり、40歳過ぎまで無官だったが、和歌は優れていた。
『古今和歌集』の撰者(和歌を選び集める人)の1人でもある。
前回の和歌に続き、ひたすらまひろに会いたがっていますね〜
【原文】
「實迷途其未遠 覺今是而昨非」
【意味・超訳】
「人生の道を間違ったが、まだ遠くまでは来ていないから引き返せる。今が正しく、昨日までは間違っていたと気づいたのだから」
【引用元】
陶淵明の「帰去来の辞」
歳を重ねて世の中に嫌気が差し、役人の地位を捨てて故郷である田舎に帰るときの決意を歌ったもの。
陶淵明は「(役人として生きた)人生は間違っていたが、まだ引き返せる。(田舎に帰ることを決意した)今が正しい」と、決意していたということだと思われます。
まひろは「私を想ってくださる気持ちも、今ならまだ引き返せるわ」と言いたかったのかもしれませんね。。。
【原文】
「我亦欲相見君」
【意味・超訳】
「私はまた、あなたに会いたい」
【引用元】
道長の自作(ドラマオリジナル)?
道長が行成(渡辺大知)に相談した際、
- 和歌→心を表すもの
- 漢詩→志を表すもの
というアドバイスをもらっていました。
まひろが、ひたすら漢詩を返してくるのに対し、道長も漢詩で返したところ、まひろも会うことを了承したようで、ついに会えましたね。
しかし2人が会った時も、
道長「一緒に都を出よう」→心
まひろ「あなたは偉くなって、この国を変えて」→志
と、それぞれの想いは、和歌と漢詩のやり取りをしていた時のままでした。。。
まひろも「あなたと一緒にひっそり暮らせたら、どんなに幸せか」的なことを言っていたので、心は道長と同じだったということでしょう。
しかし、まひろは「志」を優先したということですね。
為時から惟規への言葉(9話)
9話で、惟規(高杉真宙)を大学に送り出す際、為時が漢詩で激励をしていました!
【原文】
「一念通天 率先垂範 温故知新 独学孤陋」
【意味】
一念通天→信じ続ければ、天に通じて成し遂げられるということ
率先垂範→先頭に立って模範を示すこと
温故知新→昔のことを調べたり考えたりすると、新しい道や知識を見いだせること
独学孤陋→先生や友を持たずに独学で勉強すると、物の見方が偏ること
【超訳】
- 信じなさい
- 模範を示しなさい
- 昔のことを調べなさい
- 先生や友と学びなさい
【引用元】
『論語』の「為政」に記されている。
【論語とは?】
中国の思想家・孔子の教えを記録した書物。
「温故知新」は学生の時に習いましたよね!
惟規は為時が言った漢詩をほとんど理解できていなかったようですが(笑)
為時が花山天皇に言った中国語(9話)
9話で為時が花山天皇(本郷奏多)に言っていた中国語は、平安中期の漢詩集『本朝麗藻』に収められている、為時自作の漢詩です。
【セリフ】
「仲尼 昔夢 周公 久〜」
【意味】
「儒家の始祖・孔子は昔、中国周王朝の政治家・周公に憧れ、長い間夢に見てきた。
しかし、優れた知恵のある者の時代が過ぎたとは言わないでくれ」
【超訳】
「あなたの時代は終わっていませんよ」
為時はわがままな花山天皇によく仕えていますよね(><)
倫子サロン(11話)
11話の倫子サロンで取り上げられていた和歌は、最初の勅撰和歌集(天皇の命で作られた和歌集)『古今和歌集』に収録されている、詠み人知らずの歌です。
【原文】
「君や来む 我や行かむの いさよひに 真木の板戸も ささず寝にけり」
【意味】
「あなたは来るだろうか、それとも私が行こうかと悩んでいた。
そのうちに十六夜の月が見えてきて、扉を閉めるのも忘れて寝てしまった」
伊周の妻選びの和歌の会(14話)
14話で、伊周(三浦翔平)の妻選びの和歌の会が母・高階貴子(板谷由夏)主催で行われ、妻候補の姫たちが和歌を詠んでいました。
【原文】
「秋風の 打ち吹くごとに 高砂の 尾上の鹿の 鳴かぬ日ぞなき」
【意味】
「秋風が吹くたび、高い山の山頂にいる鹿が、鳴かない日はない」
【超訳】
「飽き(秋)られたと感じるたびに、私は泣いてる」
【引用元】
『拾遺和歌集』に収録されている、詠み人知らずの歌。
【拾遺和歌集とは?】
3番目の勅撰和歌集(天皇や上皇の命で作られた和歌集)。
一条天皇の代に成立したと言われ、花山院(本郷奏多)が選んだと言われているが確証はない。
切ない歌ですね(><)
「秋は失恋の季節」というのは、平安時代から続く価値観なのかもしれません(><)
道兼が踊りながら歌っていた(14話)
14話で自暴自棄になった道兼(玉置玲央)がお酒の席で踊りながら歌っていた和歌はこちら。
【原文】
「世の中は 夢か現か 現とも 夢とも知らず ありてなければ」
【意味】
「この世の中は、夢なのか現実なのか、現実なのか夢なのか分からない。
この世が存在しているのか、存在していないのかさえ分からない」
【引用元】
平安時代前期の歌集『古今和歌集』に収録されている詠み人知らずの歌。
まひろが詠んだ漢詩(15話)
15話でまひろが詠んだ漢詩の意味はこちら!
【原文】
「声を尋ねて闇に問う 弾く者は誰そと 琵琶声停みて」
【意味】
「誰が琵琶を弾いているのかと、そっと聞いてみたが、琵琶の音は止んでしまった」
【何が言いたい?】
「琵琶を弾く落ちぶれた女」に、自分自身を重ねた模様。
【引用元】
唐(中国)の漢詩人・白楽天の『琵琶行』。
今は落ちぶれた琵琶の名手の演奏を、左遷された自分になぞらえて歌ったもの。
道隆が死の直前に詠んだ和歌(17話)
17話で道隆(井浦新)が亡くなる直前、妻・高階貴子(板谷由夏)に向けて詠んでいた和歌は貴子が作ったものです。
第82代・後鳥羽院の命で作られた『新古今和歌集』にも収録されています。
【原文】
「忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな」
【意味】
「『いつまでも忘れない』と言うけれど、ずっと想いが変わらないのは難しいでしょう。
だから、この言葉を言われた幸せな今日、命が尽きてしまえばいいのに」
【超訳】
「どうせ心変わりしちゃうでしょ。。。?だから幸せなうちに死にたいの」
まひろの申文(20話)
20話で為時(岸谷五朗)を越前守にするため、まひろが為時のフリをして一条天皇に申文を提出していました。
史実では為時自身が書いたものであり、平安中期の漢詩集『本朝麗藻』にも収録されています。
【原文】
「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」
【意味】
「寒い夜を耐えて勉学に励み、血の涙が袖を濡らした。
除目の翌朝、天を仰ぐと青い空が目に映った」
【超訳】
「めっちゃ勉強したんですけどね〜(^_^;)
人事の翌朝に、無念だな〜なんて天を仰いだら、青い空(天皇)が目に映りましたわ〜」
しかし平安時代末期にできた噂話・昔話集『今昔物語』では、「苦学寒夜 紅涙霑襟 除目後朝 蒼天在眼」となっています。
意味は、
「寒い夜を耐えて勉学に励んだが、希望する官職に就けず、血の涙が襟を濡らした。
この除目が修正されれば、青い空(天皇)の恩恵を感じ、さらなる忠誠を誓うでしょう」
です。
まぁどっちでも意味は通りますね。
越前に着いたまひろが詠んだ和歌(22話)
22話で越前に着いたまひろは、用意されていた紙に和歌を書いていました。
実際は紫式部が越前に行った時、琵琶湖の舟の上で詠んだものであり、紫式部の和歌集『紫式部集』に収録されています。
【原文】
「かきくもり 夕立つ波の 荒ければ 浮きたる舟ぞ しづ心なき」
【意味】
「空一面が曇り、夕立が来そうで波も荒く、湖上に浮いた舟の上では心も落ち着かない」
【超訳】
「やだ〜雨降りそう(><)舟の上だから怖いわ〜(><)」
平安時代の舟は今とは全然違いますから、そりゃ怖いですよね(><)
為時が中国語で詠んだ漢詩(22話)
22話の為時パパ(岸谷五朗)の歓迎の宴でのこと。
為時が何やら中国語で、ある宋人のことを「才能がある。その名声は遠くまで響き渡る」などと褒めており、「素晴らしい漢詩だ」と褒められていましたよね。
為時は実際に越前の商人・羌世昌に漢詩を贈っており、その詩が平安中期の漢詩集『本朝麗藻』にも収録されています!
【原文】
六十客徒意態同 獨推羌氏作才雄 來儀遠動煙村外 賓禮還慙水館中
晝被雷奔天不雨 彩旗雲聳地生風 芳談日暮多殘緒 羨以詩篇子細通
言語雖殊藻思同 才名其奈昔楊雄 更催鄉淚秋夢後 暫慰羇情晚醉中
去國三年孤館月 歸程萬里片帆風 嬰兒生長母兄老 兩地何時意緒通
【意味】
「60人もの客人たち(越前に来た宋人たち)の心は同じ。
羌さん(為時が漢詩を贈った人)の漢詩の才能は唯一無二だから、その名声は遠く霞む村の外まで行くだろう。
水館の中(漢詩の贈答が行われた場所)で客人(宋人)におもてなしをしなければ、それは恥ずかしいことだ。
昼間に太鼓のように雷がとどろいたが、雨は降っていない。
色とりどりの旗のような雲が高くそびえ立ち、地上では風が吹く。
話をしたのは日暮れで、残暑が厳しい。
この漢詩で、詳しいことが通じることを心から願っている。
言語は違えど、詩文を作るということは同じ。
才能があったと評判の昔の人・楊雄(紀元前53年生まれの中国の学者)も、秋に故郷の夢を見た後さらに涙を催すため、晩酌の時に旅の心をしばらく慰める。
故郷を離れて3年、あなたは1人、館で月を見ながら、故郷を思っているのでしょう。
故郷までの帰りは遥か遠く、舟は横風を受ける。
あなたの故郷で赤ちゃんだった子どもは成長し、お母さんやお兄さんは年をとっているでしょう。
日本と宋は、いつ心を通わせられるのでしょうか」
【簡単まとめ】
- 羌世昌はスゴいよ!
- 宋人はおもてなしするよ♪
- この漢詩が伝わるといいな〜
- 故郷を離れて辛いでしょうね(><)
- 日本と宋が、簡単に行き来できるようになるといいね(><)
意味は何だかよく分からない部分もあるので(^_^;)、参考程度にしていただければ幸いです(><)
『光る君へ』で為時が言っていたのは、おそらく、
「六十客徒意態同 獨推羌氏作才雄 來儀遠動煙村外」
意味:60人もの客人たち(越前に来た宋人たち)の心は同じ。
羌さん(為時が漢詩を贈った人)の漢詩の才能は、唯一無二だから、その名声は遠く霞む村の外まで行くだろう
の部分でしょう。
こ〜んなに長い漢詩を自作できちゃうんですから、為時は相当頭が良い人だったんですね(><)
雪が降った日に、まひろが詠んだ歌(23話)
23話で越前にて雪が降った日に、まひろが和歌を詠んでいました。
実際に紫式部が越前にいた時、日野山に積もった雪を眺めながら詠んだ歌とされており、紫式部の和歌集『紫式部集』にも収録されています。
【日野山とは?】
福井にある山で、現在では越前富士と呼ばれる。
【原文】
「ここにかく 日野の杉むら うずむ雪 小しほの松に けふやまがえる」
【意味】
「こちら(越前)では、日野山(越前にある山)の杉が埋まるほどの雪が降っている。
都でも今日は、小塩山(京都にある山)の松に、雪が降っているだろうか」
【超訳】
「越前はめっちゃ雪だよ〜(><)都でも降ってるかな〜?」
この和歌の後、道長が手に降った雪を見る描写がありましたね(><)♡
『古今和歌集』で定子が好きな歌(23話)
23話で行成が写した『古今和歌集』を見ながら、一条天皇が「これは定子が好きだった歌だ」と言ってたものはこちらです。
【原文】
「夢路にも 露やおくらむ 夜もすがら かよへる袖の ひちて乾かぬ」
【意味】
「夢の中の恋しい人のもとに通う道にも、露が置かれているのだろうか。
一晩中通っていた私の袖は、濡れたままで乾かない」
【超訳】
「夢の中であなたのもとに通う道にも、露が置かれていたのかしら?
一晩中、夢の中であなたのもとに通っていたから、私の袖は露で濡れて乾かないのよ
(=涙を拭った袖が乾かなくなるほど、あなたを想って一晩中泣いていた)」
【引用元】
平安時代前期の歌集『古今和歌集』。
平安時代前期の歌人・紀貫之の歌。
この歌と定子の関係については、こちらの記事で詳しく解説しています(><)
亡くなる前のさわが、まひろに詠んだ和歌(24話)
24話でさわの訃報が知らされ、さわが亡くなる前に読んだ和歌も手紙で送られてきました。
史実では肥前(現在の佐賀県と長崎県)にいる友人が、越前にいた頃の紫式部に送った歌で、紫式部の和歌集『紫式部集』にも収録されています。
【原文】
「ゆきめぐり あふをまつらの かがみには たれをかけつつ いのるとかしる」
【意味】
「松浦国の総社・鏡神社の神は、私が誰のことを心に思って祈ってるか知っているでしょう」
【松浦国の総社・鏡神社とは?】
松浦国→佐賀県と長崎県の北部
鏡神社→佐賀県唐津市にある神社
【超訳】
「紫式部にまた会えることを願っています」
宣孝がまひろに送った文(24話)
24話のラストで、宣孝(佐々木蔵之介)がまひろに文を送り、「早く都に帰って参れ」という声が入っていましたが、何が書いてあったのかはよく分かりませんよね〜(^_^;)
ドラマオリジナルの歌のようですが、Xで読み解いた方がいらっしゃいました!
宣孝の歌です→「秋の夜にみやこをてらす月影を雲なかくしそきたにありとも」さきほどの歌、フォロワーの方から下句教えていただきました!#光る君へ
— 川村裕子@『平安のステキな!女性作家たち』岩波ジュニア新書、『ビギクラ拾遺和歌集』角川ソフィア文庫 (@kagekageko) June 16, 2024
「秋の夜に みやこをてらす 月影を 雲なかくしそ きたにありとも」
【意味】
「雲よ、秋の夜に都を照らす月の光を隠さないでおくれ。たとえ月が北にあったとしても」(※日本では月が北の空を通ることはない)
いや〜宣孝って997年時点で40代で正妻も妾もいるのですが、恋愛にマメですね〜(^_^;)
このような歌ではありませんが、紫式部が越前にいる間、実際に宣孝と和歌のやり取りをしていたそうです。
簡単にまとめると、
「あなたなんか好きにならない」という和歌を返していた
紫式部は最初、他の女にも手を出しているという噂を耳にすると、「勝手にすれば」と怒る
宣孝が「心変わりをしてほしくない」と告げる
その後、といった内容です。
実際の紫式部も、『光る君へ』のようにツンデレ系だったのかもしれませんね♪
まひろが読んでいた漢文(25話)
25話の家のシーンでまひろが読んでいた漢文は、中国の文学者・白居易の『白氏文集」の「新楽府」の一説です。
【原文】
「君の門は九重閟ず
君の耳はただ聞こゆ堂上の言
君の目は見えず門前の事」
【意味】
「天皇の門は九重に閉じ、貴族たちの言葉しか聞こえず、門の外で起きていることを見ない」
【何が言いたい?】
天皇の政治を皮肉っている
定子さまのことでアレコレあった頃のことですね。
公任と清少納言の和歌(25話)
25話で公任(町田啓太)が作った下の句に、清少納言(ファーストサマーウイカ)が上の句をつけていました。
こちらは『枕草子』にも出てくる有名なエピソードです!
【原文】
「空寒み 花にまがヘて 散る雪に(by清少納言)
すこし春ある 心地こそすれ(by公任)」
【意味】
「空が寒いので、花と見間違えるように散る雪に、少し春らしさを感じる」
これを聞いた一条天皇(塩野瑛久)が「白楽天の『南秦雪』か」と言っていましたが、どういうことなのでしょうか?
【南秦雪とは?】
中国の文学者・白楽天の詩文集『白氏文集』に収録されている詩の一つ。
それは、公任と清少納言の和歌の言葉は、どちらも『南秦雪』を参考にしたものだったからです!
【原文】
「三時雲冷多飛雪 二月山寒少有春」
【書き下し文】
「三時雲冷かにして多く雪を飛ばし 二月山寒く春有ること少なし」
【意味】
「春夏秋の3時も雲は冷たくて、雪が降ることが多く、2月になっても山は寒くて、春らしい季節は短い」
【引用した部分】
公任が引用した部分→少有春(春有ること少なし)→すこし春ある
清少納言が引用した部分→雲冷多飛雪(雲冷かにして多く雪を飛ばし)→空寒み 花にまがヘて 散る雪に
公任はもちろん、清少納言が公任に匹敵する知識がないとできない和歌ですよね!!
清少納言は、
公任が提示した「すこし春ある」が『南秦雪』の引用だと気づく
「少有春」の前の部分を覚えている
「少有春」の前の部分「三時雲冷多飛雪」になぞらえた和歌を作る
という、漢詩の記憶力と和歌の創作力どちらも持ち合わせていたことになります!!
実は、公任&清少納言と同じように、定子が提示した下の句に清少納言が上の句をつけたことがあるのですが、清少納言はその時「和歌が苦手で詠みたくない」と言っていたのです。
そんなエピソードがあったとは全く感じさせない、素晴らしい知識ですよね〜!!
道長からの結婚祝いの漢文(25話)
25話で宣孝(佐々木蔵之介)と結婚したまひろのもとに、道長からお祝いの品が届き、文も添えられていました。
道長が書いたものではありませんでしたが、何と書いてあったのでしょうか?
Xで読み解いた方がいらっしゃいました!
■道長の婚礼祝いの手紙。まるで婚礼祝い文例のカット&ペースト。道長フォントではない「寒露清霜吉日令展、敬酌禮典是遂婚礼、窈窕淑女君子好逑、萬壽無疆承天之慶」(寒くなって露はきよらか霜が降り吉日、婚礼の道具を送付、君子にとって最適な女子。天の恵みを受け末永くお幸せに)#光る君へ
— 川村裕子@『平安のステキな!女性作家たち』岩波ジュニア新書、『ビギクラ拾遺和歌集』角川ソフィア文庫 (@kagekageko) June 26, 2024
寒露は10月8日ごろのことなので、超訳すると、
「秋の良き日。婚礼のお祝いをお送りします。末永くお幸せに」
といった感じだと思います。
平安時代、漢字・漢文が分からない女性も多かったものの、道長からの文は漢文でした。
宣孝宛てということも考えられますが、宣孝宛てであれば宣孝の家に送るはずですよね。
わざわざ漢文で書かせたということは、「俺はまひろが賢いって覚えているぞ」的な謎のアピールをしていたのでしょうか?(笑)
まひろと宣孝の和歌(26話)
26話で、まひろが宣孝の顔面に灰を投げつけた後、「許す、許さない、別れる、別れないのやり取りがあった」というナレーションと共に文が映っていました。
まひろと宣孝がケンカ中にやり取りした和歌は、紫式部の和歌集『紫式部集』に収録されていますので、
- 原文
- 意味
- 超訳
をご紹介していきます。
【原文】
「閉ぢたりし 上の薄氷 解けながら さは絶えねとや 山の下水」
【意味・超訳】
「谷川の薄く張った氷が解けるように、わたし達も打ち解けたのに、川の流れ(わたし達の関係)が途絶えてもいいの?」
紫式部から文を送っているのにツンデレですよね〜(笑)
しかし宣孝は紫式部が手紙を送った当日の夕方に返事をしてきたということで、当時で言えば、割と早い返信だったのではないでしょうか?↓
【原文】
「東風に 解くるばかりを 底見ゆる 石間の水は 絶えば絶えなむ」
【意味・超訳】
「春の風で少し氷が解けたほどの仲だ。川の石の間が見えるほどの浅い流れ(浅い関係)なら、絶えるなら絶えてしまったほうがいい」
「これは宣孝、結構怒ってない??」と思いますし、仲直りできなさそうですよね(^_^;)
しかし当時の価値観だと、たとえキツい言葉で返していても「和歌を返す=仲直りの意思がある」ということだったようです。
【原文】
「言ひ絶えば さこそは絶えめ 何かその みはらの池を つつみしもせむ」
【意味・超訳】
「『もう口をきかない』と言うなら、そのまま絶交するのもいいわね。どうしてあなたのご立腹に遠慮なんかするでしょう」
「このままじゃ別れちゃう(><)」って思いますが、これも「和歌を返す=仲直りの意思がある」ということで、キツい言葉で返すのは紫式部のプライドだったのかもしれません(笑)
そして宣孝は、その夜中に返事を返します↓
【原文】
「たけからぬ 人数なみは わきかへり みはらの池に 立てどかひ無し」
【意味・超訳】
「立派ではなく、人の数にも入らないような私が、心の中で波が沸き立つように腹を立てても仕方がない」
宣孝折れました(笑)!!
よく「夫婦円満のコツは、夫が折れること」なんてことを自虐的に言う男性がいますが、平安時代も同じだったのかもしれませんね〜(笑)
「文は返すけどツンデレは貫き通す紫式部×怒るけど最後には折れる宣孝」という構図で、実際も『光る君へ』のまひろ&宣孝のような関係の夫婦だったのかもしれません(*^^*)
屏風歌の意味(27話)
27話で彰子(見上愛)が一条天皇(塩野瑛久)に入内(結婚)する時のこと。
道長が入内道具として貴族たちに歌を書くように頼み、それを屏風に貼り付けていました。
- 花山院(本郷奏多)
- 公任(町田啓太)
- 斉信(はんにゃ金田)
が屏風歌を提出し、実資(ロバート秋山)が書かなかったのは史実通りなんです!
本章では、花山院、公任、斉信が提出した屏風歌の原文・意味・超訳をご紹介していきます!
【原文】
「笛竹の よふかき声そ 聞こゆなる きしの松風 吹きやそふらん」
【意味】
「笛の音は、夜が更けるにつれて評判になる。岸の松風(松の先っちょを吹く風)が吹いているだろう」
【超訳】
「一条天皇が得意な龍笛(横笛)はどんどん評判になるでしょう!=一条天皇の名声は、これからもどんどん広がるでしょう!」
一条天皇に媚びてますね〜(笑)
世渡り上手な斉信らしいです(笑)
【原文】
「むらさきの 雲とそみゆる 藤の花 いかなる宿の しるしなるらん」
【意味】
「紫の雲がたなびいているように見える藤の花は、どれほどめでたい家の前兆なのだろう」
【超訳】
「道長の家は、これからどんどん良いことが起こるね♪」
紫の雲はめでたいことの前兆を表し、皇后の位を暗喩しているという情報もありました。
実際、清少納言が書いた『枕草子』の有名な「春はあけぼの〜」にも「紫だちたる雲」という言葉が出てきますよね!
公任と清少納言は、公任が作った下の句に清少納言が上の句をつけるというエピソードがありました。
天皇の妃のために「紫の雲」という同じ言葉を使うなんて、レベルが同じくらい高かったのかもしれませんね〜
【原文】
「ひな鶴を 養ひたてて 松が枝の 陰に住ませむ ことをしぞ思ふ」
【意味】
「ひな鳥(=彰子)を養い育てて、松の枝(=一条天皇)のところにいつまでも住まわせたいと、そのことを願っている」
【超訳】
「末永くお幸せにって願ってるよ〜♪」
みんな大好き花山院の歌です!
花山院が書いてる様子が見たかったですが、せめてナレーションだけでもほしかったですね〜(><)
賢子の子守唄(28話)
28話のでまひろが賢子の子守唄に詠んでいた詩は、中国の詩人「李嶠」のものです。
【セリフ】
「虚室重ねて招き尋ね忘言断金契る。英は漢家の酒に浮かべ、雪は〜」
【意味】
「空室に再度招いて、言葉で表しきれないほどの強い友情を固く約束する。
美しい花を中国の皇室のお酒に浮かべ、雪は〜」
だと思われる。
赤染衛門が彰子に教えた歌(28話)
28話で一条天皇に入内した彰子(見上愛)に、赤染衛門(凰稀かなめ)が「彰子さまの先祖の歌で〜」と歌を教えていました。
こちらは道長たち「藤原北家」の祖先で、藤原北家全盛の礎を築いた藤原良房の歌であり60代・醍醐天皇の命で作られた『古今和歌集』にも収録されています。
【原文】
「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」
【意味】
「年月が経って私は年老いてしまったが、この花を見れば何の心配もなくなる」
【超訳】
「娘が入内したから安心だ〜」
藤原良房の娘が天皇に入内した後に詠んだ歌で、「花=娘」のことであり、彰子を入内させた後の道長に重なりますね。
四条宮の学びの会の題材(30話)
30話の四条宮の学びの会でまひろが題材にしていた歌はこちら!
【原文】
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」
【意味】
「あなは、さぁ、どんな気持ちかは分かりません。
しかし昔から馴染みのあるこの土地では、梅の花が昔と同じいい香りをただよわせています」
【超訳】
「あなたの気持ちは変わったようですが、梅の香りは変わりません」
【引用元】
『百人一首』。
平安時代前期の歌人・紀貫之の歌。
漢詩はこちら!
【セリフ】
「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」
【意味】
「毎年花は同じように咲くが、人は同じではいられない」
【引用元】
中国の詩人・劉希夷の代表作『代悲白頭翁』の一節。
和泉式部が詠んだ和歌(30話)
30話で和泉式部(泉里香)が色気ムンムンで登場し、詠んだ和歌であり、和泉式部の和歌集『和泉式部集』にも収録されています。
【原文】
「声聞けば あつさぞまさる 蝉の羽の 薄き衣は みに着たれども」
【意味】
「蝉の声を聞くと、ますます暑く感じる。
セミは羽のような薄い衣を着て、涼しそうにしているのに」
透け感のある衣装がセクシーでしたね(><)♡
為時が頼通に教えた漢詩(30話)
30話で、為時(岸谷五朗)が道長の長男・頼通に教えていた漢詩は、中国の紀元前500年ごろの兵法書「孫子」に収録されている「呉越同舟」の一節です。
【兵法書とは?】
戦術を説いた書物のこと。
「呉越同舟」は仲の悪い人が同じ場所にいるという意味ですが、本来の意味は、仲が悪くても利害が一致すれば協力することを指します。
【セリフ】
「敢えて問う。兵は率然の如くならしむ可きかと〜」
【意味】
「あえて問う。『軍隊を率然のようにできるか』と。
※率然とは蛇のことであり、その蛇は首を攻撃すると尻尾が助けに来て、尻尾を攻撃すると頭が助けに来る
『可能だ。
呉の国の人と越国のの人は憎み合っている。
しかし同じ船に乗っている時に大風が吹いてきたら、お互いに助け合うだろう』」
【超訳】
「助け合うことなんてできるの〜?」
「できるよ!憎み合ってるけど、同じ船に乗ってる時にピンチが来たら助け合うっしょ!」
和泉式部が詠んだ和歌(31話)
31話で和泉式部(泉里香)が『枕草子』を批評した後に詠んだ和歌で、第72代・白河天皇の命で作られた『後拾遺和歌集』にも収録されています。
【原文】
「黒髪の 乱れも知らず うち伏せば まづ搔きやりし 人ぞ恋しき」
【意味】
「(事後で)黒髪が乱れているのもかまわず横になると、この髪をかきあげてくれた人を思い出す」
色気ムンムンの歌ですね(><)♡
漢詩の会で伊周が詠んだもの(32話)
32話の道長主催の漢詩の会に伊周(三浦翔平)が出席し、公任らかはら「わざと、しおらしくしているだけだ」と言われてしまっていました(^_^;)
史実では伊周の漢詩は好評だったようで、平安中期の漢詩集『本朝麗藻』にも収録されています。
【セリフ】
「春帰りて駐まらず 禁え難きを惜しみ 枝は花を落とし・・・」
【意味】
「春はとどまることなく帰っていき、惜しむ気持ちは耐え難い。
花びらは落ち、雲の行く道にように深い。
地面に落ちた花は、まさに春が帰っていったのを追って散ったものだろう。
風に任せるとすぐに、去った春を追いかけるのだ。
花が散ると枝は虚しく、嶺をめぐって霞色(←春の季語)を消す。
春の装いは脆く崩れ、谷は静かで鳥の声も消えた。
年月が移ろい、私も老けてきた。
残りの人生は、ただ天の恵みを思うだけだ」
【超訳】
「俺の春(栄華)はあっという間に終わっちまったよ〜
後はもう、天の恵み(天皇の情け?)しかないよ」
曲水の宴で詠まれた漢詩(34話)
34話、道長の屋敷にて曲水の宴というイベントが開催され、大江匡衡(赤染衛門の夫)が漢詩を披露していました。
こちらは大江匡衡の詩文集『江吏部集』に収録されている大江匡衡の自作の漢詩です。
【セリフ】
「時人処を得て青苔に坐し、酒を清流に汎かべて取次に廻る〜」
【原文】
「時人得處坐青苔 泛酒清流取次廻
水瀉右軍三日會 花薰東閣萬年盃
巡行波月映明府 斟酌沙風是後來」
【意味】
「当時の人は場所を得て緑色のコケに座り、お酒を清流(川など)に浮かべ、次の人に廻して飲む。
水をそそぐ右軍の3日の会と同じように、1万年先も続く東閣(=道長が住む土御門殿)の花が薫る宴の席。
波に映る月のようにお酒を廻すのは、お酌する人に応じてのこと。
水辺の風の中で手加減するのは、これからそれが来るからである?」(←4段目の意味はちょっと不確実)
【右軍の3日の会とは?】
右軍=中国の政治家・王羲之(官職が右軍将軍だったから)。
3日の会=王羲之が353年3月3日に催した曲水の宴。
【何言ってるの?】
要は曲水の宴の説明みたいなもの
曲水の宴は、
- 水の流れのある庭園で出席者が水辺に座る
- 流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに和歌や漢詩を詠む
- 盃の酒を飲んで次へ流す
- 別堂で作った和歌や漢詩を詠んで競い合う
というイベントです。
大江匡衡の漢詩は、この流れに沿っていますよね!
恋人を亡くした和泉式部が詠んだ和歌(35話)
35話で恋人・敦道親王を亡くした和泉式部(泉里香)が詠んでいた和歌は、和泉式部の和歌集『和泉式部集』にも収録されています。
和泉式部は敦道親王の四十九日から一周忌ごろまで100首を超える挽歌(死を悼む歌)を残したということで、『光る君へ』で詠ったのはそのうちの1つです。
【原文】
「ものをのみ 乱れてぞ思ふ たれかには 今はなげかん むばたまの筋」
【意味】
「黒髪も乱れたまま物思いにふけっている。そんな私の嘆きを誰に聞いてもらえるのでしょう」
【超訳】
「髪をとかすこともできないくらい辛いわ。。。あなたにこの嘆きを聞いてほしいのに。。。」
和泉式部の「黒髪の〜」の歌は、31話でも登場していましたね。
捕まった惟規が詠んだ和歌(35話)
35話で男子禁制の斎院にいる恋人(斎院の中将)に会いに行った惟規(高杉真宙)は、警備の人たちに捕まってしまい、その時に歌を詠んだら解放されたとのこと。
史実ではちょっと違っていて、
捕まる
↓
斎院の中将が、斎院(賀茂神社に奉仕する未婚の皇女)の選子内親王に相談する
↓
選子内親王が「その人は歌人だから許してあげなさい」と解放してくれる
↓
惟規は感謝して歌を詠み、感心される
という流れです。
この歌は、平安時代末期に成立したとされる説話集『今昔物語集』に収録されています。
【原文】
「神垣は 木の丸殿に あらねども 名のりをせねば 人とがめけり」
【意味】
「この斎院は木の丸殿(天智天皇が過ごした宮殿)ではないが、名乗らなかったので人に咎められてしまった」
【天智天皇の引き歌とは?】
惟規は「天智天皇の引き歌(歌の一部を自分の歌に引用すること)だったから感心してもらえたのかも」と言っていましたが、惟規が引用した天智天皇の歌は、
「朝倉や 木のまる殿に わがをれば なのりをいつつ ゆくはたが子ぞ」
意味:「朝倉の木の丸殿(天智天皇が過ごした宮殿)に私がいる時、名乗って通り過ぎて行ったのは、誰の子だろう」
である。
38代・天智天皇は皇太子時代、朝倉橘広庭宮(別名:木の丸殿)に住んでいた。
質素な宮殿だったため、用心のために自らは名乗らず、出入りする相手に先に名乗らせていた。
【超訳】
「この斎院は、出入りする時に天智天皇より先に名乗らなきゃいけなかった宮殿ってわけじゃないのに、咎められちゃったよ〜」
咄嗟に天智天皇の歌を引用するなんて、さすが紫式部の弟ですね!
まひろには「バチが当たって早死するわよ」と言われてしまっていましたが、惟規は実際、4年後の1011年に病気で亡くなってしまいます。。。
史実では惟規は昇進を辞退し、越後守(現在の新潟県の国司)に任じられた父・為時を心配してついて行ったということで、罰当たりどころか親思いですよね(><)
退場してしまうのが今から寂しいです。。。
まひろが彰子に教えた漢籍(36話)
36話で彰子(見上愛)が、まひろに「私にも漢籍を教えてくれ」と言い、まひろが指南していました。
その原文や意味、出典元などをご紹介していきます。
【セリフ】
「獨り善く戰い 善く時に乘ずるのみならず〜」
【原文】
「不獨善戰善乘時 以心感人人心歸」
【意味】
「唐(中国)の第2代・太宗皇帝は、ただ戦いや時の運に乗るのが上手だっただけではありません。
その真心が人の心を感動させたため、人々の心は自然と太宗天皇に付き従ったのです」
【引用元】
中国の文学者・白居易の『白氏文集』の「新楽府」の「七徳舞」
太宗皇帝は、
飢えた民がお金のために自分の子どもを売った時、民にお金を与えて買い戻してあげた
宮中で働く婚期を逃した女性を解放する
1度家に帰した死刑囚400人が全員戻ってきたため、罪を許した
ということなどを行ったそうです。
確かにこれは、ついていきたくなりますね〜
【セリフ】
「人の心の好惡苦だ常ならず〜」
【原文】
「人心好惡苦不常 好生毛羽惡生瘡」
【意味】
「人の心の好き嫌いというものは、甚だ変わりやすいものだ。
好きとなれば羽が生えているかのように大事にするが、嫌いとなると傷ばかり探す」
【引用元】
中国の文学者・白居易の『白氏文集』の「新楽府」の「大行路」
これは現代でも同じなので、800年代前後の白居易が書いたということは、1200年前も今も人の感情は変わっていないということなんですね〜
「こんなに文明が発達しても感情は変わらないなんて」と思いますが、だからこそ時代劇でも現代の私たちに刺さるものがあるのかもしれません。
彰子出産後にまひろが詠った和歌(36話)
36話の彰子(見上愛)出産後、まひろが月を見ながら歌を歌っていました。
こちらは紫式部の日記『紫式部日記』に収録されています。
【原文】
「めずらしき 光さしそう 盃は もちながらこそ 千代もめぐらめ」
【意味】
「新たに敦成親王という光が加わったお祝いの盃は、満月のように欠けることなく、栄光も永遠に続くことでしょう」
道長はこの歌を聞いて「覚えておこう」と言っていましたが、道長×望月といえば、
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
超訳:「この世は全て自分の思い通り!満月のように欠けているところがない!」
を思い浮かべた方も多いのではないでしょうか!
道長の「望月の〜」の歌は、敦成親王誕生から10年後に詠まれたものであり、実際に紫式部の「めずらしき〜」の歌を参考にしたという説もあります。
これは『光る君へ』でも「望月の〜」の歌が詠まれるフラグかもしれませんね!
これから権力絶頂期のブラック道長になるのか、はたまた違うのかなど、どのような状態で詠むのかも含めて楽しみになってきました♪
五十日の儀でまひろ&道長が詠った和歌(36話)
36話の敦成親王の五十日の儀(生誕50日目の夜に、子どもの成長を祈る儀式)でのこと。
道長が紫式部に歌を詠ませて道長も返歌を詠み、その後、倫子(黒木華)が部屋に引き上げたことは『紫式部日記』にも書かれています。
【原文】
「いかにいかが 数えやるべき 八千歳の あまり久しき 君が御代をば」
【意味】
「敦成親王の長寿を、一体どうやって数えることができるのでしょうか、いいえできません」
【超訳】
【原文】
「あしたづの よはひしあらば 君が代の 千歳の数も 数え取りてむ」
【意味】
「私に鶴のような寿命があれば、敦成親王の1000年と続く寿命も数えることができただろう」
【超訳】
『光る君へ』では公任と話しているまひろに嫉妬し、道長が詠ませたように見えましたが・・・
道長がお酒の席で聞くに堪えない冗談などを言う
↓
嫌になった紫式部が隠れる
↓
道長が紫式部のもとにやってきて「和歌を一首詠め、そしたら許す」と言う
という流れだったそうです(^_^;)
そして倫子は、まひろと道長の見事な連携プレイの和歌に嫉妬し、席を外したように見えましたよね(><)
しかし『紫式部日記』では、聞くに堪えない冗談を言う道長を見ていられないから中座したということでした。
まとめ
小学生から歴史オンチの大人まで!学問の神チャン菅原道真マンガ
『ポレポレ天神★ショートショート』
■河原院の幽霊 の巻[029]#源氏物語 #紫式部 #光る君へ
【↓ 解説はリプ欄】 pic.twitter.com/OSSoapfMAD
— 天漫ノーフク@ポレポレ天神!ショートショート (@amazim76445483) May 28, 2023
本記事では、光る君へ年表!紫式部の死因や生い立ち・時代背景を簡単にわかりやすく解説!と題して詳しくご紹介していきましたが、いかがでしたでしょうか?
難しい用語や人物関係などをわかりやすく解説させていただきましたので、私のように「紫式部とかよく分からん」と思っていた方に、参考にしていただければ幸いです(*^^*)
『光る君へ』内でよく分からない部分がありましたら、随時解説を追記していきますね♪
それでは、光る君へ年表!紫式部の死因や生い立ち・時代背景を簡単にわかりやすく解説!を最後までお読みいただき、ありがとうございました。