今回は、光る君へ解説!紫式部の生い立ちや死因・時代背景を年表で簡単にわかりやすく紹介!と題してお届けします。
2024年に放送予定の吉高由里子さん主演の大河ドラマ『光る君へ』。
『源氏物語』の作者として知られる紫式部が主人公です。
歴史の授業でやったので名前だけは覚えていますが、ぶっちゃけどんな人か、その時代に何があったのかは、私のように忘れてしまっていた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
私は高畑充希さんが大好きなので理解した上で楽しみたいと思い、本を買い漁って調べてみました!
日本史が苦手だった私が、自分でも分かるように簡単にわかりやすく解説していきます♪
本記事では、光る君へ解説!紫式部の生い立ちや死因・時代背景を年表で簡単にわかりやすく紹介!と題して詳しくご紹介していきます。
- 「『源氏物語』は聞いたことあるけど、ぶっちゃけ紫式部自身がどんな人でどんな人生だったか知らない」という方
- 「歴史とか苦手だから、簡単にわかりやすく知りたい!」という方
- 「あの時代の用語とかマジ分からん」という方
- 紫式部の一生だけでなく、時代背景も併せて理解したい方
ぜひ、最後までお付き合いください(*^^*)
光る君へ解説!年表で簡単にわかりやすく紹介!
来年の「光る君へ」の解説して頂きたかったなっていう平安文学好きの無念さよ#名古屋おもてなし武将隊 pic.twitter.com/5LyW4dnl12
— 聡(酒を愛する武衛) (@yuka0920_gg) March 30, 2023
大河ドラマ『光る君へ』の年表について、紫式部の生涯と時代背景を簡単にまとめました!
年 | 紫式部 | 時代背景 |
970 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
973 | 母・死亡(4歳) | |
984 | 父・式部省の役人になる(15歳) | 円融天皇退位&花山天皇即位 |
986 | 父・職を失う(17歳) | 花山天皇退位&一条天皇即位 |
990 | 藤原定子が一条天皇に入内(結婚) 藤原兼家の後を継ぎ、息子の道隆が関白となる | |
993 | 清少納言が定子に仕える | |
994 | 姉・死亡(25歳) | |
995 | 道隆が死亡し、弟・藤原道長が右大臣となる | |
996 | 父・越前守に任命され、越前(今の福井県)へ 紫式部も同行(27歳) | 藤原道長が左大臣となる |
998 | 越前から戻り、藤原宣孝と結婚(29歳) | |
999 | 娘が誕生(30歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚)する 一条天皇と定子の間に、敦康親王誕生 |
1000 | 定子が皇后、彰子が中宮となる 年末に定子・死亡 | |
1001 | 夫・宣孝死亡 秋ごろから『源氏物語』を書き始める(32歳) | |
1005 | 中宮・彰子に仕え始める(36歳) | |
1008 | 『源氏物語』ほぼ完成(39歳) | 一条天皇と彰子の間に、敦成親王(後の後一条天皇)誕生 |
1009 | 一条天皇と彰子の間に、敦良親王誕生 | |
1011 | 弟・死亡(42歳) | 一条天皇が退位し、三条天皇が即位 一条天皇・死亡 |
1012 | 彰子が皇太后となる | |
1013 | 宮中を出る | |
1014 | 紫式部・死亡(45歳) |
紫式部の生没年には諸説ありますので、本記事では生まれ年は970年で統一させていただきました。
ドラマでの設定が違いましたが、ドラマの設定に合わせて更新いたします。
年齢は平安時代の数え方に合わせ、数え年(生まれた時が1歳)で表記しています。
現代的に直すには−1をしてください。
詳しい生涯や時代背景については、次章でご紹介していきます♪

光る君へ解説!紫式部の生い立ちや死因・時代背景を簡単にわかりやすく紹介!
『女君で紐解く源氏物語』今回は「夕顔」が主人公です‼️
7月1日土曜日・日比谷図書館B1
13時30分開演です!三田村雅子先生の解説。
私は原文朗読をさせていただきます✨寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔#源氏物語 #夕顔 #光る君へ #紫式部 pic.twitter.com/zlS92kS9gY
— 朗読家 中里貴子 (@shiawasegatari) May 25, 2023
『光る君へ』の主人公・紫式部の生涯について、
- 生い立ち
- 結婚〜死別
- 宮中へ
- 死因
に分け、それぞれ時代背景と共に簡単にわかりやすく解説していきます!
意味が分からない単語については説明に加え、「現代ではこんな感じ」という比喩も入れますので、歴史が苦手な方でも安心ですよ♪
生い立ち
『光る君へ』の主人公・紫式部の生い立ちの年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
970 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
973 | 母・死亡(4歳) | |
984 | 父・式部省の役人になる(15歳) | 円融天皇退位&花山天皇即位 |
986 | 父・職を失う(17歳) | 花山天皇退位&一条天皇即位 |
990 | 藤原定子が一条天皇に入内(結婚) 藤原兼家の後を継ぎ、息子の道隆が関白となる | |
993 | 清少納言が定子に仕える | |
994 | 姉・死亡(25歳) | |
995 | 道隆が死亡し、弟・藤原道長が右大臣となる | |
996 | 父・越前守に任命され、越前(今の福井県)へ 紫式部も同行(27歳) | 藤原道長が左大臣となる |
詳しく解説していきます♪
紫式部は下級貴族の家に誕生します。
そして、4歳の時に母・ちやは(国中涼子)が亡くなります。
ちやはは紫式部の弟・惟規(高杉真宙)を出産してすぐに亡くなったと言われているそうです。
父・藤原為時(岸谷五朗)は漢文や漢詩を得意とする学者であり、紫式部がそばで聞いているだけで覚えてしまったため、
「紫式部が男の子として産まれていたら良かったのに」
と考えていたそうです。
父・藤原為時は、紫式部が15歳の時に式部省に勤めはじめ、六位蔵人でした。
【式部省とは?】
人事や礼式、役人養成機関である大学寮を統括する省のこと。
現代で言うと、文部科学省のような仕事や、役人の人事に関する仕事をする省のこと。
【六位蔵人とは?】
天皇の膳の給仕や、秘書的な役割をする仕事のこと。
家来の中では6番目の地位(1番下)であったが、帝がいる殿上の間に入ることは許されていた。
17歳の時、父・藤原為時(岸谷五朗)が職を失います。
これは、花山天皇(坂東巳之助)が僧になるため出家して退位し、一条天皇が即位したためです。
ある時、10年間無職だった父・為時に転機がやってきます!
為時は淡路守に任命されたのです!
【淡路とは?】
今の兵庫県淡路島。
【守とは?】
国司(地方の国を治める役人)の中で1番上の階級。
家来の中では5番目の地位(下から2番目)だったが、帝がいる殿上の間に入ることは許されていなかった。
995年に関白・藤原道隆(井浦新)が亡くなり、一条天皇は誰も関白には任命しませんでしたが、藤原道長(柄本佑)を「内覧」にし、右大臣に昇格させました。
【内覧とは?】
天皇が見たり許可を与えたりする必要がある文書を、天皇より先に見る役職のこと。
謂わば「政治を取り仕切る役目」。
【右大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
家来の中で2番目に偉い地位。
前述の通りトップが代わると役職の入れ替えが起こるため、紫式部の父・為時にも仕事が回ってきたのです!
しかし淡路は「下国」だったため、為時は一条天皇に申文を出します。
【下国とは?】
地方は土地の広さや農産物の撮れ高により、
- 大国
- 上国
- 中国
- 下国
と格付けされていた。
【申文とは?】
下位の者が朝廷に希望を書いて差し出す手紙のこと。
為時の申文の出来が良かったため、大国・越前守に任命されたのです!
【越前とは?】
今の福井県北部。
この頃、紫式部は藤原宣孝(佐々木蔵之介)から求婚されていました。
しかし、
- 宣孝は17歳も年上
- 宣孝には正室も側室も愛人もいた
- 他の女性との子どもが紫式部と同い年くらいだった
ため、ためらっていたのです。。。
父親を1人で越前に行かせるのも心配だったため、紫式部も一緒に越前へ向かったのでした。
時代背景
紫式部が誕生してから越前へ行くまでの時代背景についても解説します。
世は藤原家全盛期時代であり、ほぼすべての天皇に摂政・関白が置かれていました!
【摂政とは?】
天皇が幼い時に代わりに最終判断を下す役割。
【関白とは?】
成人した天皇を補佐する役割。
天皇が物事を決める前に、内容を吟味する権利があった。
身内同士の戦いとなり、藤原家は
- 北家
- 南家
- 式家
- 京家
に分かれて勢力争いをしていましたが、道長の父・藤原兼家(段田安則)は、
娘・詮子(吉田羊)を円融天皇(坂東巳之助)に入内(結婚)させる
↓
詮子が男の子・懐仁(後の一条天皇)を産む
↓
円融天皇は兼家が嫌いだったため、皇子を産んでいない藤原頼忠(橋爪淳)の娘・遵子を中宮(正室みたいなもの)にした
↓
怒った兼家は出社拒否&詮子と懐仁を円融天皇に会わせなかった
↓
円融天皇は譲歩して退位
「懐仁を皇太子にしてあげるよ。その代わりに僕の甥の花山天皇(本郷奏多)を次の天皇にするから」
↓
花山天皇(本郷奏多)が即位
↓
懐仁は東宮(皇太子)となる
↓
兼家は自分の孫(懐仁)を即位させるべく、策略する
↓
花山天皇の妻が急死
↓
絶望している花山天皇に出家するようそそのかす
↓
兼家の三男・道兼「一緒に出家しましょう!」
↓
花山天皇が出家後、土壇場で道兼「出家前に親に会ってきます!」と言って立ち去る
↓
花山天皇が僧になるため出家して退位
↓
一条天皇即位
↓
兼家は祖父として摂政となる(のちに関白)
という流れで、藤原北家が権力を手にしたのです!
貴族社会では妻の実家の援助を受け、母方の祖父や伯父が子どもを養育したり後見したりする習慣があった。
そのため、娘を天皇に嫁がせることで天皇の外戚となり、皇子を産ませることで力を持つことができた。
兼家の長男・藤原道隆(井浦新)は、長女・定子(高畑充希)を一条天皇に入内(結婚)させます。
一条天皇の母・詮子(吉田羊)も兼家の娘のため、道隆(井浦新)にとって一条天皇は甥っ子。
一条天皇と定子はいとこ同士で結婚したのです。

兼家が倒れると、藤原道隆(井浦新)が父の後を継いで関白となります。
993年、清少納言(ファーストサマーウイカ)は28歳頃から女房として定子に仕え始めます。
【女房とは?】
宮中や貴族に仕えた女性のことで、主人の身の回りのお世話や教育をした。
お世話係&家庭教師みたいなかんじかな?
現代の意味だと「奥さん」だからややこしいね(^_^;)
995年に藤原道隆(井浦新)が倒れると、色々とゴタゴタが・・・
道隆は息子・藤原伊周(三浦翔平)に内覧を任せようとプッシュ
↓
伊周「話が違う!俺は関白になれるって聞いたんだ!!もう一度一条天皇に確認しろ!」
↓
一条天皇「何だあいつ」
↓
道隆(井浦新)の死後、伊周ではなく、道隆の弟・道兼(玉置玲央)が関白に就任
↓
しかし道兼は関白に就任して数日で、疫病で急死
↓
一条天皇は次の関白を伊周(三浦翔平)or道長(柄本佑)で迷う
「伊周は妻・定子の兄だし、官職も上。でも、道長は年齢が上で人柄も良く、素質もあるんだよな〜」
↓
一条天皇の母・詮子(吉田羊)が自分の弟・道長をプッシュ!
↓
道長が内覧&右大臣になる
こうして、道隆(井浦新)の死後は道長(柄本佑)が権力を得たのです!
翌年、道長は左大臣に任命されます。
【左大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
家来の中で2番目に偉い地位だが、家来の中で1番偉い太政大臣は名誉職みたいなものであるため、左大臣が事実上の最高位。
左大臣は年配者、右大臣は若者が就任する。
大きく分けると右大臣と同じ地位だが、細かく分けると左大臣の方が上。
結婚〜死別
『光る君へ』の主人公・紫式部の結婚〜死別の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
998 | 越前から戻り、藤原宣孝と結婚(29歳) | |
999 | 娘が誕生(30歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚)する 一条天皇と定子の間に、敦康親王誕生 |
1000 | 定子が皇后、彰子が中宮となる 年末に定子・死亡 | |
1001 | 夫・宣孝死亡 秋ごろから『源氏物語』を書き始める(32歳) |
詳しく解説していきます♪
越前にいる間も、紫式部は藤原宣孝(佐々木蔵之介)と手紙(和歌)のやり取りをしていました。
- 宣孝のこと
- 紫式部が都に帰りたがっていたこと
があったため、紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)は越前に1人残り、紫式部を都に帰らせます。
そして、紫式部が29歳の時に藤原宣孝と結婚します。
現代でいうと平均くらいですが、平安時代当時はだいぶ遅い結婚だったようです。
平安時代は、
- 男子→15歳〜結婚可能(平均初婚年齢は20歳くらい)
- 女子→13歳〜結婚可能(平均初婚年齢は14〜15歳くらい)
だった。
宣孝とはケンカもしたそうですが、遠慮せずに本音でぶつかれる関係だったそうです(*^^*)
翌年、女の子が誕生し、賢い娘になるように「賢子」と名付けました(*^^*)
賢子は後に大弐三位と呼ばれる歌人になり、紫式部の後を継いで彰子の女房となる。
しかし、賢子が生まれた後、宣孝は紫式部のもとへ来ることが減り、夫婦仲が冷めていってしまったのです。。。
当時の結婚は、妻のところに夫が通う「妻問い婚(通い婚)」だった。
1001年、父・藤原為時(岸谷五朗)が越前守の任期(4年)を終え、都に帰ってきました。
同年、藤原宣孝(佐々木蔵之介)は都で流行していた疫病にかかり、亡くなってしまいます。。。
当時、宣孝の心は紫式部から離れてしまっていましたが、それでも紫式部は深い悲しみを味わいました。
同年、秋ごろから宣孝を失った悲しみを紛らわすかのように『源氏物語』を書き始めたのです!
時代背景
紫式部が結婚してから死別するまでの時代背景についても解説します。
999年、藤原道長(柄本佑)は当時12歳だった長女・彰子(見上愛)を一条天皇のもとに入内(結婚)させ、2番目の妃・女御とします。
【天皇の妃の位は?】
皇后=中宮>女御>更衣
「中宮」は本来「皇后」の別名だった
【ちょっと人物関係を整理】
一条天皇は道長の姉・詮子(吉田羊)の息子のため、
- 道長、道隆(死亡)にとっては甥っ子
- 定子、彰子にとってはいとこ
定子と彰子は同じ夫を持つ同士で、
- 定子→中宮
- 彰子→女御
で定子の方が位が上。
その年の年末、定子(高畑充希)は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産します。
第一皇子を出産したものの、定子の父・道隆(井浦新)は既に亡くなっているため、敦康親王には祖父という後ろ盾がいません。
もし道長の娘・彰子が皇子を産めば、道長は皇子(未来の天皇)の祖父となれるのです。
翌年、藤原道長(柄本佑)は、
- 中宮・定子(高畑充希)→皇后
- 女御・彰子(見上愛)→中宮
にしたため、一条天皇は2人の正妻を持つこととなります。(史上初)
定子の位はそのままでスライドされ、彰子の位だけ上がっていますね。
これは彰子の位を上げ、さらに自分の地位を盤石にするための道長の計画だったのでしょう。
同年年末、定子は第二皇女(第一皇女は997年に出産)となる媄子内親王を出産した直後、産後の経過が悪く、24歳という若さで亡くなったのです。。。
これで一条天皇の正妻は道長の娘・彰子だけとなりました。
宮中へ
『光る君へ』の主人公・紫式部の宮中にいた部分の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
1005 | 中宮・彰子に仕え始める(36歳) | |
1008 | 『源氏物語』ほぼ完成(39歳) | 一条天皇と彰子の間に、敦成親王(後の後一条天皇)誕生 |
1009 | 一条天皇と彰子の間に、敦良親王誕生 | |
1011 | 弟・死亡(42歳) | 一条天皇が退位し、三条天皇が即位 一条天皇・死亡 |
1012 | 彰子が皇太后となる | |
1013 | 宮中を出る |
詳しく解説していきます♪
宣孝を失った悲しみを紛らわすために『源氏物語』を書き始めた紫式部(吉高由里子)。
最初は『源氏物語』を友人たちに読ませていましたが、次第に貴族の間でも評判になります!
そんな時、
- 彰子が『源氏物語』を気に入っていた
- 彰子に高い教養を身に着けさせ、一条天皇が気にいる妃になり、皇子を産ませる
ために、藤原道長の正室・源倫子(黒木華)に呼ばれ、「彰子の女房になってほしい」と言われます。
最初は戸惑っていた紫式部ですが、父・藤原為時(岸谷五朗)にも説得されます。
道長は、為時が大国・越前守に任命された際、力添えをしたため、為時は道長に恩があったのです。
父親にも説得された紫式部は、女房として彰子(見上愛)に仕え始めます。
しかし宮中でイジメを受けたため、初出仕後に約5ヶ月も引きこもったとか(笑)
何やかんやありましたが、紫式部は「バカなふりをして目立たず出しゃばらない」という処世術?を覚え、無事、宮中での日々が始まったのです(^_^;)
当時、漢字は男性、女性はひらがなを使うのが一般的だった。
女性は、
- 漢詩(中国の伝統的な詩)
- 漢文(漢字のみでつづった古代中国の文章)
の知識があっても、知らないふりをするのが奥ゆかしいとされた時代。
紫式部は漢字の「一」も読めないふりをしていた。
そして、この頃から「藤式部」と呼ばれるようになります。
紫式部の本名は不明だが、『光る君へ』では「まひろ」となっている。
- 「藤」→藤原氏の一族だから
- 「式部」→昔、父親・為時(岸谷五朗)が式部省に勤めていたから
「藤式部」と呼ばれた。
今でいう「〇〇部長の娘さん」みたいな感じかな?
当時、紙は貴重だったため、紙の提供者がいればその都度書いてた『源氏物語』ですが、藤原道長(柄本佑)の支援があり、彰子に仕えながら『源氏物語』を書き進めていました。
紫式部の他にも、道長が呼び寄せた才能ある女房、
赤染衛門(紫式部曰く「家柄は良くないが、歌は素晴らしい」)
伊勢大輔(紫式部は、奈良の興福寺で咲いた桜を彰子に渡す役目を伊勢大輔に譲った)
和泉式部(紫式部曰く「素行は良くないが、歌は素晴らしい」)
など共に、彰子のサロンは優れた女性文化人が集う場になっていったのです。
【サロンとは?】
宮中の特定の集団のこと。
この場合、彰子を中心として仕える女性が集まって知的な会話を楽しみ、それが「サロン」と呼ばれた。
1008年から、宮中の様子を書いた日記『紫式部日記』を書き始めます。
『紫式部日記』には、同年に『源氏物語』と思われる物語の冊子作りが行われたと書かれているため、この頃には完成に近かったと考えられています。
当時、紫式部が仕えていた彰子が一条天皇の子・敦成親王を出産しました。
敦成親王誕生のお祝いの宴で、和歌や音楽の才人・藤原公任(町田啓太)が酔って「若紫はいませんか?」と探しました。
【若紫とは?】
『源氏物語』に登場する女性で、「紫の上」という名前でも知られる。
『源氏物語』の主人公・光源氏は、若紫が初恋の人に似ていたため気に入り、引き取って育てて、後に妻とする。
この話が評判になって「紫式部」と呼ばれるようになります。
1009年、40歳ごろには藤原道長(柄本佑)と和歌のやり取りをしていて、紫式部は道長の愛人(妾)説もあるようですが、定かではありません。
1010年には『紫式部日記』を完成させます。
翌年、紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)は、越後守に任命され、越後(今の新潟県)に向かいます。
父を心配してついていった紫式部の弟・惟規(高杉真宙)は、越後の地で病気で亡くなりました。。。
紫式部は深い悲しみを味わい、弟を亡くした後に出家したいと思ったそうですが、彰子を支えるべく、宮中に残ったのです。
しかし、そんな紫式部に宮中を去る事態が訪れます。
1012年、中宮・彰子(見上愛)が皇太后となります。
【皇太后とは?】
前の天皇の妃であり、今の天皇の母という立ち場。
彰子は前の天皇・一条天皇の妃ではあるが、今の天皇・三条天皇の母ではない。
三条天皇の両親は、
- 父→冷泉天皇(63代天皇。円融天皇の1代前)
- 母→藤原兼家の長女・超子(道長の姉)
である。
三条天皇は、
- 先代・一条天皇、彰子のいとこ
- 道長にとっては甥っ子
彰子を皇太后にした=道長は自分の孫・敦成親王(彰子の子)を帝にするつもりと考えられます。
彰子はこれまで父・道長の言うことを聞き続けてきましたが、
一条天皇の第一皇子・敦康親王(定子との子)を差し置いて、第二皇子である敦成親王(彰子の子)が皇太子となること
自分が皇太后となること
も喜んでおらず、父・道長の強引さに憤りを感じていました。
紫式部はそんな彰子に、道長のやり方に批判的な立場だった藤原実資(ロバート・秋山)に相談してはどうかと勧め、紫式部は彰子と実資の相談の取り次ぎをしていました。
その噂を耳にした道長は「彰子が最近反抗的になったのは紫式部が原因かヽ(`Д´)ノ」と怒り、紫式部を彰子から遠ざけるため、宮中を追い出したのです。。。
紫式部が宮中を去った理由は、道長に遠ざけられたため以外に、体調が悪い日が続いていたためという説もある。
時代背景
紫式部が宮中にいる間の時代背景についても解説します。
一条天皇は定子(高畑充希)LOVEだったので、定子が亡くなってからも中宮(正妻)の彰子(見上愛)には見向きもしてくれません。。。
それどころか、亡き定子の面影を求め、定子の妹・御匣殿を可愛がり、妊娠させるほど(^_^;)
御匣殿は妊娠中に亡くなったため、御匣殿が育てていた 定子との間にできた第一皇子・敦康親王を彰子に育てさせたのです(><)
道長は「何としてでも彰子に皇子を産ませるんだ!」という目的で、紫式部を女房につけたのです。
一条天皇に振り向いてもらいたい彰子は、定子が漢詩の知識を持っていて一条天皇と話が弾んでいたことから、紫式部に漢詩を教えてもらいます。
紫式部は中国の詩人・白居易が著した『白氏文集』を“こっそり”教えた。
一条天皇が以前『源氏物語』を読んだ際、「これを書いた人は『日本書紀(日本紀)』(奈良時代に成立した歴史書)の知識がある」と褒める
↓
それを聞いた女房が紫式部のことを「日本紀のお局」と悪口を言う
↓
紫式部はいじめられて5ヶ月引きこもったくらいだから、悪口を気にして、他の女房がいない2人だけの時にこっそり教えた
そんな彰子の努力が報われた(一条天皇は『源氏物語』が読みたくて彰子のところに通ったという説も汗)ため、彰子は嫁いで9年、20歳の時に一条天皇の子を授かります。
1日半かかっためちゃめちゃ難産の末、1008年に彰子は一条天皇の第二皇子となる敦成親王を出産しました。
道長はめちゃめちゃ喜び、敦成親王がお洩らしをして自分の着物が濡れてしまっても喜んだとか(笑)
敦成親王は後に三条天皇が退位した後、後一条天皇となる。
三条天皇は眼病を患い、視力も失ったと言われており、
- 視力が失ったこと
- 内裏(天皇の私的区域)が焼失したこと
などにより、道長から譲位を迫られる。
三条天皇は自分の第一皇子である敦明親王を皇太子にすることを条件に譲位したが、敦明親王は道長の無言の圧力で自ら皇太子を辞退した。
その見返りとして道長は、敦明親王に准太上天皇(譲位した天皇・太上天皇に準ずる待遇のこと)を与え、娘も嫁がせるなど礼を尽くした。
彰子は翌年にも一条天皇の第三皇子となる敦良親王を出産します。
敦良親王は後に後一条天皇(彰子が産んだ第二皇子・敦成親王)が退位した後、後朱雀天皇となる。
三条天皇の第一皇子である敦明親王が皇太子を辞退した後、皇太子となった。
後一条天皇は皇子に恵まれないまま亡くなったため、敦良親王が天皇となった。
一条天皇は病気のため、いとこである三条天皇に譲位します。
一条天皇は定子との子・敦康親王を皇太子にすることを望んでいました。
しかし藤原行成(渡辺大知)は、
「道長が実権を握ってるから、それは止めたほうがいい。敦康親王の身を案じるなら、彰子との子(道長の孫)を皇太子にすべき」
的なことを進言します。
藤原行成は、一条天皇の蔵人頭(家来の中で上から4番目の地位)であり、一条朝の四納言の1人。
一条朝の四納言は、一条天皇時代に活躍した4人の公卿(上級の家来)のこと。
そのため、彰子との子で第二皇子である敦成親王が皇太子となり、道長は「次の天皇の祖父」という立ち場を手に入れたのでした。
三条天皇に譲位後、同年に一条天皇は出家しますが、出家して3日後に32歳という若さで亡くなります。
そして前述の通り翌年、中宮・彰子(見上愛)が皇太后となったのです。
同年、道長は三条天皇に入内(結婚)させていた次女・妍子を中宮にします。
三条天皇は長年の妻であった藤原済時の娘・娍子LOVEだったので、
- 中宮→妍子(道長の娘)
- 皇后→娍子
という、二后並立状態になったのです。
一条天皇のときの定子と彰子みたい
藤原済時は、一条天皇の時代、道長の兄・道隆(井浦新)を補佐してた人だよ
1013年、妍子(道長の次女)は三条天皇の第三皇女となる禎子内親王を出産します。
皇子ではなかったので道長は悔しがりました。
死因
『光る君へ』の主人公・紫式部の亡くなるまでの年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 紫式部 | 時代背景 |
1014 | 紫式部・死亡(45歳) |
詳しく解説していきます♪
紫式部が宮中を去ってからどうなったのかについては、未だ明らかになっていません。
紫式部は以前から出家したがっていたようですが、念願の出家ができたのかも謎のまま。。。
亡くなる1014年頃、越後守をしている父・藤原為時(岸谷五朗)に和歌を送ったとされています。
そして、45歳ごろに亡くなったということですが、死因も不明です。
平安時代中期の貴族の推定平均寿命は、男性が50歳、女性が40歳という情報もありましたので、紫式部は割と長生きだったんですね。
時代背景
紫式部が宮中を去ってからの時代背景についても解説します。
紫式部の父・藤原為時(岸谷五朗)は1014年、越後守の任期を1年残して帰京します。
これは紫式部が直前に亡くなったからではないかと言われており、為時はその2年後に出家しました。
前述の通り、道長は次女・妍子を三条天皇に嫁がせていましたが、妍子が産んだのは女の子だけ。
その後も皇子に恵まれなかったため、道長は三条天皇に早く譲位するよう迫ります。
そのころ三条天皇は眼病を患っていたので、1016年、三条天皇は眼病などを理由に譲位し、後一条天皇(彰子の子、道長の孫)が即位します。
藤原道長(柄本佑)は9歳の天皇の外祖父として摂政となったのです。
道長はその後、
三女・威子を後一条天皇(彰子の子、道長の孫)の中宮にする(1018年)
六女・嬉子を敦良親王(彰子の子、道長の孫であり、後の後朱雀天皇)に入内させる(1021年)
ということを行い、ますます地位を盤石にしていきました。
最終的に、道長は4人の娘を天皇に嫁がせ、3人の天皇の祖父となったのです。
【天皇に嫁がせた4人の娘】
- 彰子→一条天皇
- 妍子→三条天皇
- 威子→後一条天皇(彰子の子)
- 嬉子→後朱雀天皇(彰子の子)
【道長の孫である天皇】
- 彰子の子→後一条天皇、後朱雀天皇
- 嬉子の子→後冷泉天皇(第70代天皇)
1017年に摂政の座を長男・藤原頼通に譲りましたが、その後も頼通の後ろ盾となって影響力を持ち続けました。
藤原頼通は1067年に関白を辞任するまで権力を持っていましたが、頼通の娘は皇子を産むことができなかったため、その後、勢力は衰えていったのです。
4コマ風に超簡単まとめ!




『光る君へ』の主人公・紫式部の生涯を、超簡単に4コマ風でまとめてみました♪
詳しい詳細は、前述の解説をお読みください(*^^*)

まとめ
小学生から歴史オンチの大人まで!学問の神チャン菅原道真マンガ
『ポレポレ天神★ショートショート』
■河原院の幽霊 の巻[029]#源氏物語 #紫式部 #光る君へ
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— 天漫ノーフク@ポレポレ天神!ショートショート (@amazim76445483) May 28, 2023
本記事では、光る君へ解説!紫式部の生い立ちや死因・時代背景を年表で簡単にわかりやすく紹介!と題して詳しくご紹介していきましたが、いかがでしたでしょうか?
難しい用語や人物関係などをわかりやすく解説させていただきましたので、私のように「紫式部とかよく分からん」と思っていた方に、参考にしていただければ幸いです(*^^*)
『光る君へ』内でよく分からない部分がありましたら、随時解説を追記していきますね♪
それでは、光る君へ解説!紫式部の生い立ちや死因・時代背景を年表で簡単にわかりやすく紹介!を最後までお読みいただき、ありがとうございました。