今回は、光る君へ藤原定子(高畑充希)悲運な生涯とは?出家の理由や死因もわかりやすく紹介!と題してお届けします。
毎週日曜日20:00〜放送されている吉高由里子さん主演の大河ドラマ『光る君へ』。
高畑充希さんは、清少納言が仕えた姫・藤原定子を演じられます!
私は高畑充希さんが定子を演じると聞いて、「大学受験の勉強してる時に参考書に出てきてたわ!でも何の人か全然覚えてない(^_^;)」と思ってしまいました。
私のように「名前だけは遠い記憶の彼方にあった」という方、「名前すら知らんわ」という方もいらっしゃるのではないでしょうか?
私は高畑充希さんが大好きなので理解した上で楽しみたいと思い、本を買い漁って調べてみました!
日本史が苦手だった私が、自分でも分かるように簡単にわかりやすく解説していきます♪
本記事では、光る君へ藤原定子(高畑充希)悲運な生涯とは?出家の理由や死因もわかりやすく紹介!と題して詳しくご紹介していきます。
- 「役の説明に『一条天皇の最愛の妃だが、悲運に見舞われる』って書いてあるけど、どういうこと?」と思った方
- 「歴史とか苦手だから、簡単にわかりやすく知りたい!」という方
- 「あの時代の用語とかマジ分からん」という方
- 藤原定子の生涯だけでなく、時代背景も併せて理解したい方
ぜひ、最後までお付き合いください(*^^*)
光る君へ藤原定子(高畑充希)悲運な生涯とは?出家の理由や死因もわかりやすく紹介!
「はなとゆめ」冲方丁(角川文庫)読了。
清少納言の生涯を描いた枕草子誕生物語です。
あの天真爛漫で明るい文章の随筆が実は権力争いに敗れた主人、中宮定子を元気付ける為に書かれたとは。
藤原摂関政治の全盛期に向かう平安時代の歴史も学べて勉強になりました❗#読書好きと繋がりたい pic.twitter.com/QXCQ6xYJYP— とっく~読書垢 (@xzlzspsz1) February 24, 2019
『光る君へ』に登場する・藤原定子(高畑充希)の悲運な生涯について、年表とともに、
- 生い立ち
- 天皇の最愛の妃に
- 出家の理由
- 第一皇子出産
- 死因
に分け、それぞれ時代背景と共に簡単にわかりやすく解説していきます!
日本史が苦手な私が自分でも分かるようにまとめましたので、私と同じように歴史が苦手な方でも安心ですよ♪
生涯年表
大河ドラマ『光る君へ』に登場する藤原定子(高畑充希)の生涯と時代背景を年表で簡単にまとめました!
年 | 藤原定子 | 時代背景 |
977 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
984 | 円融天皇退位&花山天皇即位 | |
986 | 花山天皇退位&一条天皇即位 | |
990 | 一条天皇に入内(13歳) | 藤原兼家の後を継ぎ、息子の道隆が関白となる |
993 | 清少納言が定子の女房になる(16歳) | |
995 | 父・藤原道隆死亡(18歳) | 道隆の弟・藤原道長が右大臣となる |
996 | 出家 母・高階貴子死亡(19歳) | 藤原道長が左大臣となる |
997 | 第一皇女・脩子内親王出産(20歳) | |
999 | 第一皇子・敦康親王出産(22歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚)する |
1000 | 一帝二后(23歳) | |
1001 | 第二皇女・媄子内親王出産 定子・死亡(24歳) | 清少納言の『枕草子』ほぼ完成 |
平安時代は数え年(生まれた時が1歳)であるため、資料によっては年齢が違う場合があります。
平安時代風に直すには+1をしてください。
詳しい生涯や時代背景については、次章でご紹介していきます♪
生い立ち
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子の生い立ちの年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 藤原定子 | 時代背景 |
977 | 誕生 | この時の天皇は円融天皇 |
984 | 円融天皇退位&花山天皇即位 | |
986 | 花山天皇退位&一条天皇即位 |
詳しく解説していきます♪
藤原定子は977年、藤原道隆(井浦新)と、高階貴子(板谷由夏)の長女として誕生しました。
父・藤原道隆は時の権力者の長男!
道隆の父・藤原兼家(段田安則)は、娘を天皇に嫁がせており、定子が生まれた翌年には右大臣となっています。
【右大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
家来の中で2番目に偉い地位。
道隆も偉い人ですが、冗談を言うような朗らかな性格であり、容姿端麗だったそうです♡
母・高階貴子は、『百人一首』にも載っている有名な女流歌人!
円融天皇(坂東巳之助)の内侍(女官)として宮中で働いた経験もあります。
そんな権力者の長男で朗らかイケメンと、才女の間に生まれた定子は、才色兼備なお嬢さまだったのです♡
定子には他に、
兄・伊周(三浦翔平)
弟・隆家(竜星涼)
妹・原子(一条天皇の次の天皇・三条天皇の妃)
弟・隆円(僧侶)
妹・頼子(円融天皇の1代前、冷泉天皇の第四皇子・敦道親王の妃)
妹・御匣殿(定子の死後、残された子どもたちを育てる)
といった兄弟がいます。
時代背景
定子が誕生した時の時代背景については、こちらの記事で詳しく解説しています。
超簡単にまとめると、
定子の祖父・兼家(段田安則)が娘・詮子(吉田羊、定子にとっては叔母)を円融天皇(坂東巳之助)に入内(結婚)させる
↓
詮子が男の子・懐仁(後の一条天皇)を産む
↓
兼家の出社拒否に円融天皇が折れて退位&花山天皇(本郷奏多)即位
↓
兼家は花山天皇を騙して出家させ、花山天皇退位
↓
一条天皇(塩野瑛久)が即位し、外祖父になった兼家は摂政に
という流れです。
【摂政とは?】
天皇が幼い時に代わりに最終判断を下す役割。
天皇の最愛の妃に
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子の一条天皇に嫁いだ部分の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 藤原定子 | 時代背景 |
990 | 一条天皇に入内(13歳) | 藤原兼家の後を継ぎ、息子の道隆が関白となる |
993 | 清少納言が定子の女房になる(16歳) | |
995 | 父・藤原道隆死亡(18歳) | 道隆の弟・藤原道長が右大臣となる |
詳しく解説していきます♪
989年、12歳の時に着裳の儀式を行い、初めて歴史の表舞台に登場します。
【着裳とは?】
女性が成人した際に行われる通過儀礼。
初潮を迎えた後の10代前半の女子が対象であり、裳着を済ませたら結婚が許可された。
女子に初めて裳(十二単の着物の一つ)を着せる式であり、女子に裳を着せる役「腰結」は、定子の祖父で時の権力者・藤原兼家(段田安則)が務めた。
990年、13歳の時に、一条天皇(塩野瑛久)に入内(結婚)します。
一条天皇は定子より3歳年下で、この時まだ10歳。
そのため、まだこの時は夫婦というより姉弟のように仲が良かったそうです♡
定子は女御として入内しましたが、父・藤原道隆(井浦新)の画策により、同年10月に「中宮」となったのです。
【天皇の妃の位は?】
皇后=中宮>女御>更衣
定子が「中宮」になれた経緯については、こちらの記事で詳しく解説しています!
簡単にまとめると、
- 当時、皇后の枠は埋まっていた
- 「中宮」は本来「皇后」の別名だったが、それを「別物」にした
- 枠を増やして、ねじ込んだ
という流れです。
後に権力者となる藤原道長(定子の父・道隆の弟。演:柄本佑)は、定子の中宮大夫に命じられました。
【中宮大夫とは?】
中宮の身の回りの世話をする役所「中宮職」の長官。
しかし藤原道長は父の喪中を理由に、儀式を欠席しています。
定子を半ば無理やり中宮にしたことで、道隆は世間の反感を買っていたため、道長の態度は賞賛されたそうです(^_^;)
993年、16歳くらいの時に『枕草子』で知られる清少納言が、定子の女房として仕え始めます。
【女房とは?】
宮中や貴族に仕えた女性のことで、主人の身の回りのお世話や教育をした。
平安時代は天皇が妻のもとに通う「通い婚」なので、妻側は華やかなサロンを開き、天皇の興味を引いて通わせていたのです。
【サロンとは?】
宮中の特定の集団のこと。
この場合、定子を中心として仕える女性が集まって知的な会話を楽しみ、それが「サロン」と呼ばれた。
定子は、
といった素晴らしいトップだったため、定子が逝去して9年経っても懐かしむ声があるほどの明るく華やかなサロンになりました♡
そして、一条天皇も足繁く定子のもとに通ったのです♡
定子と清少納言は約11歳の年の差がありましたが、定子は清少納言がお気に入りであり、清少納言も『枕草子』内で定子を絶賛しています♪
定子と清少納言のエピソードについては、こちらの記事で詳しく解説しています!
995年、18歳の時に父・道隆が倒れて亡くなり、何やかんやあって道隆の弟・道長が内覧になりました。
【内覧とは?】
天皇が見たり許可を与えたりする必要がある文書を、天皇より先に見る役職のこと。
謂わば「政治を取り仕切る役目」で、関白と同じような権限を持つ。
道隆が倒れて道長が内覧になった経緯については、こちらの記事で詳しく解説しています!
簡単にまとめると、
息子・伊周(定子の兄)を内覧にさせようとしていた
道隆は一条天皇は伊周が気に入らず、道隆の弟・藤原道兼(玉置玲央)を関白にするが、就任してすぐ病死
一条天皇の母(道長の姉)の猛プッシュにより、一条天皇は道長を内覧に指名
という流れです。
【関白とは?】
成人した天皇を補佐する役割。
天皇が物事を決める前に、内容を吟味する権利があった。
定子の後ろ盾であった父・道隆が亡くなり、兄・伊周も権力を握れなかったため、定子には強い後ろ盾がいなくなってしまったのでした。。。
しかし、この時の定子はまだ「一条天皇のただ1人の妻にして、最愛の妃」という立場は残っています。
この時代は一夫多妻制だけど、道隆が他の女性の入内(結婚)を許さなかったから、この時はまだ妻が定子1人だったんだよ
一条天皇が定子を愛していたエピソードはこちら♪
時代背景
定子が一条天皇の最愛の妻となった時期の時代背景については、こちらの記事で詳しく解説しています。
超簡単にまとめると、
定子の祖父・兼家(段田安則)が倒れた後、長男で定子の父・道隆(井浦新)が後を継いで関白に
↓
道隆が倒れ、道隆の弟・道兼(玉置玲央)が関白に就任
↓
道兼もすぐに亡くなり、兼家の五男だった道長(柄本佑)が内覧に就任
↓
道隆の長男で定子の兄・伊周は権力を握れず
という流れです。
出家の理由
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子の出家の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 藤原定子 | 時代背景 |
996 | 出家 母・高階貴子死亡(19歳) | 藤原道長が左大臣となる |
997 | 第一皇女・脩子内親王出産(20歳) |
詳しく解説していきます♪
前述の通り、藤原定子は父・道隆(井浦新)という後ろ盾がなくなり、兄・伊周(三浦翔平)も権力を道長(柄本佑)に奪われてしまいます。
これにより、伊周(+定子の弟・隆家)VS道長のバチバチが始まります(><)
伊周は会議の場で道長と直接口論
死人が出る事件を起こす
隆家の従者が道長の従者と争い、などなど荒れていました(><)
さらに伊周は、
花山法皇の袖を矢で射抜かせる(長徳の変)
伊周は自分の意中の女性を花山法皇(本郷奏多)も狙ってると勘違いし、隆家(竜星涼)に呪った証拠の品が発見される
道長の姉で一条天皇の母・栓子(吉田羊)の住まいの床下から、栓子を伊周が、天皇以外に行ってはいけない密教の修法をある寺に行わせた、という報告が入る
といったことを起こしたため、
伊周→太宰府(現在の福岡県太宰府市)
隆家→出雲国(現在の島根県東部)
左遷されることとなりました。
【長徳の変とは?】
伊周の弟が、前の天皇の袖を矢で射抜いた事件。
996年頃 伊周が通っていた女性の家に、花山法皇(本郷奏多)も通い出す
↓
実際は、
- 伊周→三女
- 花山法皇→四女
目当てだったが、
伊周「花山法皇がオレと同じ女を狙ってる!あいつ、出家してるのに!」と勘違い
↓
隆家に相談
↓
996年2月7日 隆家は従者を連れて花山法皇を襲い、花山法皇の袖を矢で射抜く
↓
花山法皇は出家した身で女性通いをしていたため、体裁が悪く口をつぐんでいた
↓
しかし事件の噂が広まり、伊周や隆家が左遷されることに
【天皇以外に行ってはいけない密教の修法とは?】
密教→秘密の仏教で、天台宗&真言宗がある。
修法→病気や災難などを払うために行う特別なお祈り。
伊周は、私的に禁じられていた真言密教の秘術(呪術)「大元帥法」を行ったとされた。
定子は当時、第一子を妊娠中であり、実家の二条宮にいました。
伊周と隆家は身に覚えのない罪もあったたため、定子のもとに身を隠していたのです。
996年5月、一条天皇は強制捜査の命を出し、定子の目の前で伊周と隆家は連れて行かれてしまいます。。。
ショックを受けた定子は、妊娠中にも関わらず自分で髪を切って出家したのです。
政敵のはずだった伊周が自業自得で失脚したことにより、道長の権力は盤石なものとなっていくのでした。
同年夏に、定子がいた二条宮が火事になり、定子はおじ・高階明順の屋敷・小二条の家に移ることになりました。
そして同年秋には、
母・高階貴子(板谷由夏)が亡くなる
同僚の女房たちに「道長側のスパイ」と、あらぬ疑いをかけられた清少納言が実家に帰る
といった不幸が続いたのです。。。
そんな失意の中、997年1月27日、20歳の時に一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産したのです。
脩子内親王の生涯については、こちらの記事で詳しく解説してるよ♪
時代背景
定子が出家した時期の時代背景について解説していきます。
996年、藤原道長(柄本佑)は左大臣に任命されます。
【左大臣とは?】
司法・行政・立法を司る太政官(最高行政機関)の職の一つ。
家来の中で2番目に偉い地位だが、家来の中で1番偉い太政大臣は名誉職みたいなものであるため、左大臣が事実上の最高位。
左大臣は年配者、右大臣は若者が就任する。
大きく分けると右大臣と同じ地位だが、細かく分けると左大臣の方が上。
政敵だった藤原定子の兄・伊周(三浦翔平)が、花山法皇(本郷奏多)への無礼という自業自得で勝手に失脚したため、藤原道長はガッツリ権力を握ることとなったのです。
第一皇子出産
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子の第一皇子出産の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 藤原定子 | 時代背景 |
999 | 第一皇子・敦康親王出産(22歳) | 道長の娘・彰子が一条天皇に入内(結婚)する |
詳しく解説していきます♪
こちらの記事で解説している通り、一条天皇(塩野瑛久)は定子LOVEでした。
一条天皇は定子の出家にショックを受け、997年6月、周囲の反対を押しのけて定子を還俗(尼であることを捨て、俗人に戻ること)させて呼び戻したのです!
定子は呼び戻されたものの、一度出家して戻ってきた定子に対し、周囲の反応は冷たく・・・
天皇の妻が住む後宮ではなく、「職の御曹司」という建物に住まわされました。
【職の御曹司とは?】
中宮職(天皇の妻に関わる事務を担当する役所)の建物。
内裏(天皇の住まいがある場所)の外にあり、母屋に鬼がいたという不気味な建物。
周囲が冷たかろうが、一条天皇の定子への愛は熱いまま!!
職の御曹司では遠すぎるため、近くに別殿を準備させ、夜遅くに通って夜明け前に帰るという手法でコッソリ会っていたのです!
定子の出家を一条天皇が引き戻したことについては、こちらの記事でも解説してるよ♪
兄・藤原伊周(三浦翔平)と弟・隆家(竜星涼)も許され、
- 997年12月に伊周が帰京
- 998年5月に隆家が帰京
と戻ってこられました。
少しずつ定子の立場も回復し、999年1月には一時的に内裏(天皇の住まいがある場所)に戻ってこられ、2人目の子どもを身ごもったのです♡
しかし立場が回復しつつある中でも、定子への嫌がらせは続きます。。。
前述の通り、平安時代に出産は「穢れ」とされており、宮中以外で出産するのですが、定子は平生昌の三条の屋敷で出産することになったのです。
平生昌は以前、定子の母・高階貴子(板谷由夏)の病気を心配して、伊周がこっそり左遷先から戻ってきた時、密告した張本人(><)
そんな「敵」とも言える人の屋敷で出産することになってしまったのでした。。。
999年11月7日、22歳の時に定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産します!
待望の第一皇子であるため、定子の立場は完全回復!遂に安泰!と、思われたのですが・・・
時代背景
定子が第一皇子を出産した時期の時代背景について解説していきます。
999年、藤原道長(柄本佑)は当時12歳だった長女・彰子(見上愛)を一条天皇のもとに入内(結婚)させ、2番目の妃・女御とします。
前述の通り、定子の父・藤原道隆(井浦新)は一条天皇の寵愛を定子1人に向けさせるべく、他の女性の入内(結婚)を許していませんでした。
道隆が亡くなるまで一条天皇の妻は定子だけでしたが、道隆の死後、他の貴族たちは自分の娘を一条天皇に入内させます。
そして道長も、娘に皇子を産ませてさらに権力を盤石なものにするべく、長女・彰子を一条天皇に嫁がせたのです。
一条天皇の5人の妻については、こちらの記事でご紹介しています。
死因(←光る君へは今ココ!)
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子の亡くなった時の年表だけ、抜き取ってみました。
年 | 藤原定子 | 時代背景 |
1000 | 一帝二后(23歳) | |
1001 | 定子・死亡(24歳) | 清少納言の『枕草子』ほぼ完成 |
詳しく解説していきます♪
前述の通り、藤原道長(柄本佑)は娘・彰子(見上愛)を一条天皇(塩野瑛久)の女御にしました。
しかし1000年2月25日、道長は定子が一度出家したことを理由に、娘の地位を上げようとして、
- 中宮・定子→皇后に
- 女御・彰子→中宮に
したため、一条天皇は2人の正妻を持つこととなったのです。
史上初の「一帝二后」だったんだって
どうして正妻が2人になったのかは、こちらの記事で詳しく解説してるよ♪
定子は父・道隆(井浦新)の死後、「一条天皇のただ1人の妻」という地位を失っただけでなく、「一条天皇のただ1人の正妻」という地位まで奪われてしまったのです。。。
しかし、正妻が2人になろうと一条天皇は定子LOVEのまま!
彰子が実家に帰った隙に定子を呼び寄せ、3人目の子どもを妊娠したのです!
1001年1月12日、定子は一条天皇の第二皇女となる媄子内親王を出産します。
しかし産後の経過が悪く、媄子内親王を出産した翌日、1001年1月13日に24歳という若さで亡くなりました。
現代でも出産は命がけですが、平安時代はさらに命がけであり、出産で亡くなる女性は少なくなかったようです。
定子は亡くなる前に詠んだ辞世の句については、こちらの記事でご紹介しています。
一条天皇は定子LOVEだったので定子の訃報を知った時、深く悲しみ、葬儀の時は一晩中涙を流したそうです。。。
定子が亡くなった後、清少納言は他の姫に仕えることはなく、宮中を去りました。
清少納言が宮中を去ったことについては、こちらの記事で詳しく解説しています。
定子は一条天皇や清少納言など、色々な人から愛されていたんですね。。。
定子亡き後、定子の妹で、道隆(井浦新)の四女・御匣殿が定子の子ども達を育てていました。
一条天皇は定子LOVEだったので、定子の面影を求めて御匣殿を寵愛し、妊娠までさせたそうです。
しかし御匣殿は妊娠中に亡くなってしまい、定子の息子である第一皇子・敦康親王は一条天皇のもう1人の正妻・彰子が育てることになったのです。
その後、一条天皇が病気のため譲位する際、一条天皇は定子との子・敦康親王を皇太子にすることを望んでいましたが、道長の権力を案じ、彰子との子を皇太子にしたのです。
定子の生涯は、一条天皇の愛を一身に受けながらも、
- 妊娠中に出家
- 正妻が2人という史上初の出来事
- 24歳という若さで逝去
- 自分の息子である第一皇子が皇太子になれなかった
などといったことが起こったため、「悲運な生涯」と言われているのです。
時代背景
定子が亡くなった時期の時代背景について解説していきます。
定子の女房として仕えていた清少納言の代表作『枕草子』の執筆時期は正確には判明していませんが、定子が亡くなった1001年にはほぼ完成したとされています。
実は『枕草子』は、定子が清少納言に紙を与えたおかげで出来上がったんです♪
前述の通り、定子は一条天皇の最愛の妻でありながら、父・道隆の死後は「悲運」とも言える人生を歩んできました。
しかし、『枕草子』には定子の没落した姿は一切書かれておらず、華やかな定子の姿しか残っていません!
このことからも、清少納言が定子を慕っていたことが分かりますね(><)
なお1001年秋ごろから、清少納言のライバルと称されている紫式部が『源氏物語』を書き始めたそうです。
平安時代を代表する文学作品が、同じ時期に完成&書き始めたと知ると、何だかエモいですね(*^^*)
定子の死後の時代背景などについては、こちらの記事で詳しく解説しています。
簡単にまとめると、
彰子が2人の皇子を出産
↓
一条天皇は亡くなり、三条天皇が即位
↓
三条天皇が譲位し、彰子の子・後一条天皇(敦成親王あつひらしんのう)が即位
↓
道長は摂政となり、最終的に4人の娘を天皇に嫁がせ、3人の天皇の祖父となった
という流れです。
4コマ風に超簡単まとめ!
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子の悲運な生涯を、超簡単に4コマ風でまとめてみました♪
詳しい詳細は、前述の解説をお読みください(*^^*)
まとめ
『なまみこ物語』は、一条帝の時代藤原道長の権勢に押され没落して行く中関白家出身の藤原定子の悲劇の生涯を扱ったもの … 『枕草子』に出て来る才色兼備の中宮定子だ。高校時代の私は、この日本史上最高の貴婦人に魅了され、京都の鳥辺野陵まで行って来た。平安時代の葬場だった寂しい場所だった。 pic.twitter.com/vYdGwSOeIy
— Hiroshi Matsuura (@HiroshiMatsuur2) April 25, 2020
本記事では、光る君へ藤原定子(高畑充希)悲運な生涯とは?出家の理由や死因もわかりやすく紹介!と題して詳しくご紹介していきましたが、いかがでしたでしょうか?
『光る君へ』で高畑充希さんが演じる藤原定子は、一条天皇の最愛の妃でありながら、妊娠中に出家したり、若くして亡くなったりしたため、「悲運な生涯」とも言われています。
『光る君へ』では前半の山場になりそうですし、参考にしていただければ幸いです(*^^*)
それでは、光る君へ藤原定子(高畑充希)悲運な生涯とは?出家の理由や死因もわかりやすく紹介!を最後までお読みいただき、ありがとうございました。